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つれづれ歌雑記 その13 「 抒情を貫く」    喜多弘樹

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つれづれ歌雑記 その13 「 抒情を貫く」    喜多弘樹

なんだか訳のわからない世の中を生きなければならなくなった。季節も定まらない。秋の澄んだ空、甘い金木犀の香がほのかにどこからか匂ってくる街路、秋桜の一面に咲きそろう野、アケビの蔓が櫟や栗の木に絡まって、その先に熟れて白い縦割れの果肉を覗かせる熟実。みんな、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨に大規模な崖崩れ、多くの人々がその災害で亡くなられた。毎年、台風の心配をしたが、今年のように大風雨に竜巻、そんなものはこれまでにはなかった。東京の公園ではデング熱のウイルスを持った蚊の発生など、いよいよ日本も亜熱帯の風土へと変わりつつあるのだろうか。政治の右傾化も気がかりではあるが、時代や社会の流れはこれからの超高齢化を迎えるこの国をどこへ向かわせようとしているのか。

こういう風潮の中で歌を詠むことの困難さをいよいよ深くする。社会詠が蔓延し、若い世代のあさはかな恋歌が幅を利かせる、そんなムードは避けがたくやって来るような気がする。歌本来がもっている丈高い抒情がしばし姿を隠してしまいそうで、それがいいのか悪いのかを論じること自体も虚しい空言になってしまわねばいいのだが、とも思う。

いま、私の手元に一冊の古びた詩集がある。佐川英三詩集『若い湖』。たまたま「古書ネット」の検索でひっかかったのだが、以前から読んでみたい詩集だった。佐川は吉野の国栖の出身で、同じ郷土の詩人で山一つ隔てた龍門出身の池田克己とともに、戦後最大の詩誌「日本未来派」を創刊した。郷土の先輩詩人には、十津川出身の抒情詩人・野長瀬正夫がいた。共通しているのは、みんな郷土吉野を離れて東京へと出て行ったことである。

『若い湖』昭和二十一年刊、発行所「日本未来派」、定価二百円、部数は限定二五〇部。私が手にしたのは「第五九冊」目と赤字で記されていて、達筆な毛質で寄贈者名も書かれていた。それに、「藤沢市鵠沼二三三六 佐川英三 行」という葉書まではさまれていたのには驚かされた。おそらく郵便事情がまだ悪いなかで手元に届いたかどうかという確認と、ついでに何か感想を一言書いてくださいという謙虚なお願いだったと推察するが、それが当時献本する際の常識でもあったのだろう。また、紙と印刷費用が高価な時代の中での詩集刊行の困難さをあらためて思った。集中、こんな詩がある。「秋」と題した詩。

 

舗道にならべられた虫籠のなかで
さまざまな虫が鳴いている。
明るい灯影をさけるように
ちんまり坐った老婆が
じつとその虫の音を聞きながら買手を待つている。
無心にすだく虫がかなしいのか。
それを売る年寄りがかなしいのか。
ともあれ そこには
既に深い秋が来ていた。

 

たったこれだけの短い詩であるが、佐川の孤独と憂愁の眼差しがじっと虫売りの老婆に注がれている。あわれという感情ではない。むしろせりあがる感情を必死で押し殺したような不屈の詩精神の気高さと強靭さである。詩集の「跋」は畏友・池田克己が書いている。「佐川は今、最も不遇の境涯にいる。頑健そのものに思われた彼の身体は、徴兵、徴用と重なった災禍のごときものによって、深くむしばまれ、すでに数年に亘る臥床の生活を送ってる。しかも二人の子供を抱かえ、社会保護法の適用を受け、想像を絶する生活の中にいる。しかし、彼は、かつてそのような苦境を、苦渋の表情をもって人に漏らしたことはない」とし、「溌剌たる思惟の純度と鋭感は、その忍耐の生活の、ギリギリの極限によって掴えた、生命の品華とも呼ぶべきものであろう」と「ひたすらその詩業にのみ、あらあらしい拍手を鳴らさねばならぬのだ」と結んでいる。「生命の品華」とはいい言葉だ。

皮肉なもので、そう壮絶なエールを送った池田克己は昭和二十八年、四十一歳という若さで胃がんで亡くなり、佐川は平成四年、七十九歳まで生き延びた。前順子夫人によると、佐川夫妻がかつて前登志夫宅を突然訪問したことがあったという。温厚でなかなかの紳士だった。国栖の親戚宅へ何かの用のついでに立ち寄ったという。すでに前登志夫は歌人としての確固たる地位を得ていたのだが、二十代の詩人時代は、ずいぶんと上京するたびに佐川邸にはお世話になったらしい。当時の文士や詩人は同類の家や下宿を転々と宿代わりにしていたらしいから、詩人・前登志晃も、郷土の先輩詩人の野長瀬や池田、それに加えて大森忠行、木原孝一などとも交友を深めたにちがいない。「日本未来派」には、上林献夫、高見順、小野十三郎、安西冬衛、高橋新吉といった名だたる詩人が名を連ねていた。

二十代は現代詩を書いていた前登志夫、いや本籍名・前登志晃(この名付け親も、同じ下市の山林地主・山守の長で、前の父上と親交のあった命名鑑定に詳しかった堀内氏であったことも偶然知った。ちなみに堀内氏の娘さんは日本を代表する古布収集家である。ただし、改名理由はさだかではない)

前は、池田克己のことは名品『吉野紀行』(角川書店刊)でも、死ぬ数年前に池田が川端の前の仮屋に訪ね、「君はいいなあ」と言ったことを記している。もともと、池田は吉野工業を卒業後、下市口で写真館を開業し、詩誌「風地」や「豚」を編集していた。そういう意味では前ともっとも近しい詩人だった。佐川英三のことは、「吉野町史」の編纂の中で、前が担当した文学篇で触れている。「こういう不遇な詩人にこそ吉野を語らしめなければならない。郷土はこういう人こそ大切にしなければならない」と言挙げしているのが印象的だった。

ただいまの私には、詩人・前登志晃を知る上での唯一の手がかりは、前の自筆年表からは抹消されていた(『全歌集』年譜にはあえて復活された)順子夫人からお借りした郷土文芸誌「望郷」七冊しかない。しかし、そこからわかること、想像されることは数多いので、もう少し時間をかけて精査してみたいと思っている。もっとも、二十代の前の詩業のことを知ったところで、それが歌にどのような影響を及ぼしているかなど明快に分析できるわけではないだろうが、郷党としての使命である気がする。誰でもそうだが、二十代に知ったり学んだりしたことは老いてもなかなか忘れないものである。それらを捨て去ろうとしても、純粋に醸造された詩精神の根っこの部分だけは切り離せない。

たとえば、「望郷」八号(昭和二十八年二月)で、大浦美奈子という詩人が、はじめて「形象の最弱音(ピアニツシモ)―前登志晃私見―」と題した小論を書いている。   眠つてゐるうちに雪がふりつみ わたしから無数の橇が旅立つた 「影の列葬」   前の代表的な詩の詩句をいくつかピックアップしながら大浦は次のように述べている。「さういふ氏の内部構造は わたし(ぼく) とあなた(おまへ) との交互的展開によつて示されてゐる。孤独な魂におけるほど、語りかけたい ひとが、ものが、求められるものである。即ち氏のポエジイの世界には自然の世界に対する人間の世界といふものがある。(略)ここに氏が詩の造形性をめざされながら常に抒情(新しい詩における)を意図されてゐるその抒情性を支へる一つの鍵があるかもしれぬ」。

前登志晃は本質的には抒情詩人であった。ところが、前登志夫として詩と決別して歌を創作するようになった時期は、ちょうど現代詩の潮流も、大きくとらえれば反体制社会詩や左翼思想詩などが幅を利かせ始める時期と重なる。抒情詩が片隅へと追いやられていくのである。それは「日本未来派」の廃刊ともかかわりがあるように思える。純粋な抒情を守るべき砦が歌ではなかったか。たとえ、「奴隷の韻律」と揶揄されようとも、守るべきは守らねばならないのである。

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