短歌とTANKA

大門通2380

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大門通2380      小城小枝子

 

サイトで見つけた大門通2374のビジネス・ホテルの一室に、荷を下ろすや否や、私は外に飛び出した。左手に見覚えのあるの大門が夕暮れに重々しい。とすれば、そう、まだ存在すればだが、私の目指す「大門通2380」は右手の筈。進み始めて右側に目をやると、すぐに見覚えのある土塀があり、昔何度も潜った瓦屋根の表門があるではないか。ああ、あったのだ。見れば、六十代と思しき女性が竹箒で門前を掃いておられた。そして、そこには「古民家松村記念館」とあり、保存されていたことがわかった。

「私は六十五年前、終戦の年にこちらでお世話になった者なのですが、、」
と恐る恐る声をかけると、
「まあ、そうですか。家の中をご覧になりますか」
と優しく答えられて、早速玄関へと案内された。

昭和二十年、終戦の年、米軍による東京の空襲はますます激しさを増していた。父母、姉は東京にいたものの、長兄・次兄共に内地海軍基地勤務、三兄は学生で仙台在住と、家族はちりぢりの生活だった。そこへ、軍の命令で牛込にあった母の病院は強制疎開を命じられ、急遽病院を畳み、東京女子医専の近くに家を見つけて、苦労して引っ越した。ところが、引越しの疲れも癒えぬ日、引っ越した先が罹災し、家は灰燼に帰したのである。その罹災の前に、既につてを頼っての私の疎開の手はずは決まっていて、寝具等を送りつけてあった。その宛先がこの大門通2380の松村家である。

広い間口の表玄関で靴を脱ぎながら、このお宅に滞在させていただいた三ヶ月の間、この表玄関を家族が使うことはなかったことを思い出していた。家族用はもっと間口の狭い内玄関が専ら。最初に母と、私の滞在をお願いに伺った時も内玄関であった。母の後ろに隠れるように立った私を覗き見る目、柱に張り付き、隙間から首を出す鼠のように並んだ好奇の目の数を今も忘れない。男の子が三人、それに年嵩の女の子。

戦災に遭って間をおかぬ朝、市電は動かず、河田町から新宿駅までの道のりの焼け跡を姉と歩き、何とか電車を乗り継いで、この足利の松村家に到着。その到着の晩、私の布団は内蔵の入口の前に敷かれた。生まれて初めて、家族と離れて生活することになった十四歳の私は、疲れ切った体を布団に横たえながら、なかなか寝付けなかった。目に入るのは、見慣れない冷たいお蔵の漆喰塗り、閉じられた鉄の頑丈な扉。そして、急に耐えられない胃の痛みが我が身を襲い、呻き声をあげたのだった。隣の部屋で、二つ年上の女の子がその声を聞きつけて、医者を呼んで下さったっけ。

その内蔵の前に、六十五年後の今、こうして立っていると、小さい痩せ細った女の子が目に浮かぶ。そして、その癪の騒ぎのあと、その家の女の子の八畳の部屋に同室で起居することになった。そのお庭に面したお部屋を今の眼で確かめる。見覚えのある八つ手の緑。

茶の間の記憶。ある日ふと通りすがった廊下から、茶の間の楽しそうなおやつの時間を垣間見た。家族が集まったそのテーブルに「真っ赤なイチゴに白砂糖」を、通り過ぎながら思わず見てしまったのだ。当時の東京では白砂糖など見たくてもなかったのである。松村家は戦時下であるのに食料に恵まれていたのだ。

そして、戦後、一度だけ伺った時に通されたお二階のお部屋へ。あの日、私の来訪を知らずに、部屋に入ってこられ、お辞儀をしようと畳に座ろうとなさり、不様に足を折り曲げて恥じた同い年の男の子。聞けば、終戦二年後に起きた渡良瀬川の氾濫の折に足を怪我をされて不自由になられたとか。あと、記憶に残る浴室の大きな鏡のことを伺うと、今は私用のブロックにしていらっしゃるというのに、その浴室にも案内していただいた。

聞けば、松村ご夫婦は既にこの世になく、お子様がたも散り散りで、終戦後にお生まれになったご子息夫婦がこの記念館を守っていらっしゃるとのこと。

一生にもう一度この眼で見たかった私の「昔」は、2010年の短い帰国の旅程に入っていたのである。

なかんづく互みの道は交わらず今ここに見る揺るる藤波

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