短歌とTANKA

文体から見えてくるもの

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   楠誓英作品評 「文体から見えてくるもの」   岩尾 淳子

 

 楠誓英の『青昏抄』にはいくつかのキーワードがあり「影」はその典型といえるが、「水」もまたそのうちの一つかと思われる。楠は「水」を具体から抽象へと変化させながら明暗にわたる多様なイメージを展開している。

    ひるがへり泳ぐ少年腹白く水に映れる雲の中ゆく

    水面に飛び込み台の影くづれまた一人水に入りゆく少年

    寝転びて生の曖昧思ふ午後 天井に水の影のゆらめく

歌集の冒頭のあたりからランダムに引用してみた。一首目、この歌集によく登場するプールの情景。水面に映る少年を「腹白く」と把握する鋭さ。そして少年の体が水に映る雲の中をゆくとの見立てがすがすがしい青春歌となっている。二首目も、やはり「水」に関わる歌。「飛び込み台の影くづれ」と水面に映る影への視線が鮮やかである。丁寧に写生することで、次々にプールに飛び込んでゆく少年の動きをいきいきと捉えている。青年らしい抒情がシャープに立ち上がっている。
ところが、その隣に併記されている三首目は、「水」という語は使われていてもかなり歌の趣は変わってくる。ここに現れる「水」は具体の「水」とは違って心象として現れている。作者は床に寝転んでおり、天井を見上げている。そこに外光の反射があったのか、それを水の影と見るとき、作者の体は水底に沈んでいることになる。その水底とはおそらく死の世界に近い場所であろう。ここには明らかに現実的な生の時間からの乖離してゆく意識が働いている。上の句の「生の曖昧」としたのは硬い表現で成功しているとは言いがたいが、下の句の景には現実世界を彼岸から眺めているような虚脱した視線がある。
「水」の歌にみられるように、楠の歌には現実の自分を越えた遠いものへの志向があるように思う。それはまぎれもない青春性ともいえるし、自由な生のありかたへの憧れでもあるだろう。しかし、楠の場合、そうしたロマンチズムを抱きながら、自らそれをどこかで断ち切っている。あるいは断念といってもいいかもしれない。そこに楠の歌の世界への糸口があるように思う。

 もう一度、歌集巻頭の歌にもどってみよう。

   背広着し見慣れぬ吾の内にある琥珀の色の夕雲ひとつ

言ひかけてやめたる吾と合歓の葉が閉ぢて下がれり夕闇の中

一首目、就職して背広を着た自分に「見慣れぬ吾」として違和感がある。一方で、自分の中にまだ消えてはいない「琥珀の色の夕雲」を確かめている。「琥珀色に輝く夕雲」は喪われてゆく青春への愛惜であろうし、その輝きを手放そうとはしていない。しかし、二首目になると、相手に伝えようとした思いが言葉になるまえに「言ひかけてやめ」られ、合歓の葉のように閉ざされてしまう。こうした強い「断念」が楠の歌の一つのモチーフを形成している。こうして楠を手放しの青春性から遠ざけてしまうものは何なのか。
ネクタイを外しし首に手を当てて今宵は思ふカインの印
この歌も歌集冒頭部にある。「カイン」は周知のように旧訳聖書に印されている人類最初の殺人者である。ここでは自分自身を「カイン」になぞられて意識されている。自らの中に潜んでいる殺人衝動を引き出し、またそういう自己の内奥の姿に深く戦いている作者がいる。こういった自意識は次のような歌にも現れる。
黒い羽のついた帽子が首だけのマネキンにふはり被さつてゐる

一見、平明な写生詠と見える歌にも、さきほどの自意識の翳りを読みとることはたやすい。帽子売り場の店頭に飾られているマネキン。それを「首だけのマネキン」として提出されると妙に生々しいものがある。こういった物の把握のしかたにも内面に秘めている暴力性が垣間見えているような気がする。
この作者の内面にはすこやかで純粋な浪漫性がある。しかし一方で、おさえようのない執拗な暴力性も内包している。あるいは、虚無のようなものも漂っている。おそらく後者は、楠が現実世界と向き合うなかで、次第に胚胎されていたものであろう。それらが混在することで精神世界に強い内圧を孕んでいる。そういう精神的な状況は苦しいものだろう。だが、そこにこそ楠の特異性があるようだ。
 

 

 

ここで、少し『青昏抄』のなかの〈震災詠〉に注目していきたいと思う。この作者の文体を考える上でこの歌群を外してはこの作者の全体像を見誤ることになりかねない。

 

   真暗な震災前の家の中で兄の名を叫ぶ夢を見てゐた

   震災の瓦礫の中をゆく祖父の棺は揺れる舟歌のやう

   生と死がなひまぜになる夕ぐれに亡兄に似た人影がたつ

   大地震に崩れた家の天井に十二の吾がまだ住んでゐる

   お互ひをののしり合ひしその果てに亡兄(あに)の名を出せば黙す父なり

ここにあげた歌を〈震災詠〉としていいのかは疑問もあるだろう。しかし、この作者にとっての現実世界の大きなファクターとして震災体験があったといってもそれほど外れてはいないだろう。家を破壊され、家族を喪い、そして残された家族も傷つけ合うことを余儀なくされる過酷な現実がこれらの歌に託されている。修辞らしいものはほとんどなく、素朴な文体である。一首目は夢の歌。場面は震災前でありながら、すでに闇に包まれている。その闇は亡くした兄を探し求める自身の心そのものである。二首目の祖父の棺を「舟歌のよう」とする喩は修辞意識からは遠い。葬儀の場面が「舟歌」という音声として長く意識のなかに流れ続けている。実感をそのまま言い切った形だ。三首目も亡兄の影を追って夕暮れに視線が彷徨っている。四首目、家が倒壊したとき目の前に天井が落ちてきたのであろうか。その瞬間から時は止まったままだ。そして五首目、父との深い軋轢。どの歌も感情を抑制され、ぶっきらぼうな歌い方である。喪失体験は、その過酷さゆえ個性を消してストレートな表現で読むほかにないのであろう。こうした歌は完成度としては確かに弱い。しかし、この作者が逃げようのない現実に追い詰められ、現実の実相をとおして自身の傷ついた内面を引き出してゆく場面として、不可欠な作品群でもある。震災の記憶を繰り返し詠むことで、この作者は現実の様相だけではなく、自己を含めた人間や事物をより深く洞察し、感覚を磨いていったように思う。

楠本来の浪漫的な文体と、現実から引き出してきた虚無的な文体。この二つが拮抗するなかで、作者独自の粘り強い文体が熟成されていったのであろう。自分の身体や実物から感覚は遊離し、言葉が自由に動きはじめると、物の見方やとらえ方が深まってゆく。むしろ、現実の実体から視線は浮遊し、読む者を異次元に誘い込むようなねじれ感が鮮明な歌がいくつもある。

   木の影の塀をつたひてくる夕べ自転車を押すは吾父ならん

よく引かれるこの歌にしろ、木の影と塀と夕べとの関係はどうなっているのか不明瞭である。木の影は塀にかかっているのだが、その影まるで生き物のように塀に沿ってしだいに伸びて、自分に迫ってくるかのように感受されている。塀も単なる場所ではなくて、どこか憂鬱な雰囲気を醸している時間そのものでもあるようだ。この生々しさを喚起しているのは、「吾父」の存在である。それは塀にうつる影の中から浮き上がってきたかのように錯覚される。屈折感のある文体から父の翳りを刻む心象までもが透視されているような一首である。

   遮断機の向かうの夕陽にじわじわと足が生えてきて吾が父になる

   月影の中にうめきて一人立つ男が次第に冷水機になる

 一首目も父を詠んだ歌だが、尋常ではない。夕陽に足が生えているという幻想はどこか脅迫的でさえある。父への畏怖、あるいは憎しみに近い意識がこういう幻想をえがかせるのか。二首目は、うめく男が冷水機に変身している。これは作者自身の投影かとも思うが、自画像だとしたらすさまじい映像である。この二首ともに現実の世界を逸脱している。作者のなかの切実な痛みに届いている。それは先にみた〈震災詠〉のような平板な表現では現すことのできないある種の迫真性のある幻想であるともいえる。そしてここに露出してしまっているのは作者の内面である。それは、ひとことでいって「絶望」ではないだろうか。内面の苦悩が世界をゆがませて見せている。あるいは、世界の歪みを直感で把握しているといってもいいだろう。作者の絶望の深さが、景や人物の本質にひそむ邪悪さを鷲掴みにしてみせる。その文体は、事物の向こうに隠れている見えない存在を生々しく現出させる。この異世界までも凝視する力こそ、この作者が持つ浪漫性から生まれたものであるように思う。

   見えてゐる世界は金にゆがんでゐる金瑠璃の目の天灯鬼がゐる

   腕と同じ数だけ腋窩はあるだらう千手観音に向かひゐるとき

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