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理系の視点 森垣岳のうた

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理系の視点  森垣岳のうた  近藤かすみ 

 

この度、氏が第二回現代短歌社賞を受賞されたことは、誠に喜ばしい。以前から、田中教子氏を通じての知り合いであっただけに、筆者の喜びもひとしおだ。
現代短歌社賞は、平成二十五年に現代短歌社の創立を記念して設けられた賞で、受賞者は歌集一冊を上梓できる。応募には歌数三百首が必要。歌集を出して歌壇に名乗りをあげたい者にとっては、憧れの賞だ。第一回では、四百五十一篇の応募があり、大衡美智子氏の『光の穂先』、楠誓英氏の『青昏抄』の二作品が受賞した。

第二回は、百四十八篇の応募作の中から、森垣岳氏の『遺伝子の舟』が見事金的を射止めることとなった。心よりおめでとうございますとお祝いを述べたい。
ナヅノキ7号では、「現代短歌」平成二十六年十二月号に発表された受賞作品の三十首抄と選考座談会で挙げられた歌を元に、森垣作品を読んでみる。

  産みたての朝の光を培養し夜毎グラスに入れて飲むべし

  ここだけが小さく汚染されていて芽の細胞がくずれゆくなり

  これはおそらく鯨の顎の骨でしょう机の上に死が広がりぬ

 森垣岳は、一九八二年神戸生まれ。九州の大学で農業の勉強をされ、現在は兵庫県立の農業高校の教師をしておられる。
一首目。「産みたて」という言葉から、すぐに卵を思ってしまうが、「朝の光」と意外な展開を見せるところに詩情がある。「培養」から理系の独特のものの見方を感じる。朝の光を培養したら、どんな物質が出来るのだろうか。それを夜毎グラスで飲むという。発想の面白さ、謎めいた物語のはじまりを感じさせる。二首目。顕微鏡で植物の芽の観察をしている場面だろう。小さな汚染からいずれ全体が崩れる予想を、事実だけ提示してあとは読者に任せている。三首目。理科室の机に骨か化石を置いて、何の生物であるかを特定しようとしている場面と読める。何であろうと、それは死の姿であることに変わりはない。上句の口語文に対し、下句の言い方の直截さが冷えびえとした感覚を誘う。結句の「死が広がりぬ」が恐ろしい。

  指導者と呼ばれてますが革命も解放もせず農場の中

  パンジーが幾万本も廃棄されて週末明るい死で満ちている

  塩分の定量実験するためにぬばたまの夜の海水を汲む

 このような農業高校を題材とした歌は、職場詠として新鮮な感じがする。現在、農業高校がどのくらいあるのか知らないが、筆者のように都市に住み、日々の食品をはじめとする品々を店で買う人間にとっては珍しい素材だ。一首目は、学校の指導者という立場の作者が、政治的な指導者ではないことを改めて示して、言葉の意味の二面性を捉えている。「呼ばれてますが」という丁寧な口語に、微かなユーモアを感じる。二首目のパンジーの歌では、そんなに多くの花が廃棄されるとは知らなかったので驚いた。「明るい死」という不釣り合いな表現が魅力的だ。三首目。塩分の定量実験と、「ぬばたまの」の枕詞のミスマッチが面白い効果を上げている。
思えば、精神科医であった斎藤茂吉をはじめ、岡井隆、小池光、永田和宏など理系の学問を修めたのち、医師、理科教師、研究者として働いた歌人は結構多い。女性歌人では、石川不二子、永田紅がいる。森垣岳も、その系譜に繋がっていくべき人ではないかと思う。理系の学問をする中で、物を見る目が微視的であったり巨視的であったり、視点の置き方ということを学んでいるに違いない。そこに期待するところは大きい。

 足早に目の前をゆく女生徒は入学以来マスク外さず

 農業に明日はあるかという問いに芋虫はただ黙秘で返す

 友人の少なき生徒サイダーのビンに小さき蛇入れて来る

 労働の歌を日暮れに口ずさむ生徒の父は南米に住む

教師として生徒を詠んだ歌もなかなか興味深い。一首目。最近、マスクをしている人をよく見かけるが、単に風邪の予防というだけでなく、自分の顔を隠したいという欲求があるように思われる。そのマスクも立体的になったり大きくなったりして、顔の下半分を覆っている。マスクを外さない女生徒の心の中はどうなのだろう。覗いてみたい気にさせられる。事実のみを述べて、答は読者に預けるところがよいと思う。マスクという具体も効いている。二首目の上句はだれの質問だろう。生徒の質問かも知れない。下句で芋虫が登場し、答えをはぐらかしている。返すのが「黙秘」という堅い言葉なのが新鮮に感じられる。三首目も、サイダーのビン、蛇という具体を出して、生徒の個性を表現している。生徒への観察が細かく行き届いている。四首目は、生徒それぞれの家庭の事情を見て歌の題材としている。今、農業高校に進学する生徒は、それを活かして農業に従事するのだろうか。生徒の中には、希望通りの学校に進学したわけではなく、心に屈折を抱えた者も居るのではないか。教師歌人は多いが、農業高校という場は、あまり例を知らない。それを継続して詠っていくことは大きな意味のあることだ。

  帰る地は今さらないが摩耶蘭の根茎白き切片を切る

  食卓の上がさびしい三十歳いまだ家族を持たざる私

  立ち枯れの松ほど老いた我が父の死を見届けよ新しき母

  けんけんぱ 道に書かれし輪を飛んで けんぱ けんぱで家に帰りぬ

森垣の家族詠を見る時、彼が親からしっかりと独立した一人の大人であることを思う。神戸生まれで、兵庫県の高校に就職しているので、ずっと親元で暮らしていたのかと先入観を持っていたが、父親との葛藤の中で、自立せざるを得ない事情があったようだ。それが一首目の「帰る地は今さらない」、二首目の「食卓の上がさびしい」に繋がる。
三首目では、父親を「立ち枯れの松ほど老いた」と突き放したように表現し、いずれ来る父の死まで見据えて、その再々婚を冷静に見ている。暖かい情愛など期待できないような葛藤が、親子の間にあったのだろうか、と想像してしまった。その反面、四首目では、けんぱ遊びをする子供のような無邪気さを失っていない。リズムも良く楽しい歌なのだが、ほかの歌と一緒に読む時、彼の心はどうだったのか、何か一筋縄では行かないものを思ってしまう。

 アスファルトを剝がす工事の道を越え妻は苺を買いにゆきたり

 透明なエビの肉体 子を宿す妻の肉体暖めており

 鮮やかな海老の話を聞きながら洗濯物を疊みいる妻

 起き上がる煩わしさを訴える妻の形のオオサンショウウオ

父親との葛藤の歌を読んだあと、これらの妻の歌を読むと、作者にもやっと温かい家庭ができたことを喜ばずにはいられない。一首目での妻は、献身的でたくましい。アスファルト、苺の具体の取り合わせに距離のある分、妻の優しさと強さが際立つ。二首目は、上句で「透明なエビの肉体」と言いながら、一字あけて、子を宿す妻の肉体を詠っている。妻を抱きながらも、頭の隅には仕事で扱うエビのことが離れないのだろう。妻の丸まった姿勢から、図らずもエビを思い出してしまったのか。その両方を含めて作者は抱き、暖めている。彼にとっては、両方とも大切で愛おしいものなのだ。妻である人は、職場の同僚と聞いている。海老のことは、夫婦の会話にも現れ、三首目では、家事をしながら海老の話をする様子が描かれている。四首目で、起き上がる煩わしさを訴えるのはオオサンショウウオではなく、奥さまなのだが、そこを逆転して表現したところに、歌の面白味がある。

 殺人も自殺もできず真夜中にダウンロードをするばかりなり

 テレビから嗤う声して休日は煙草の灰の崩れゆくさま

 真夜中の電話で我を否定する声よ大蛇の腹に呑まれよ

現代の若者を象徴するような歌を挙げてみよう。一首目。法に触れたり、決定的に自らを傷つけるような大それたことはしないし、できない。ただ、インターネットの世界で興味のあるものをダウンロードしているだけだ。現代の小市民の姿である。ダウンロードするものが何かは具体的には書かれていない。もしかしたら危ないものかもしれない。しかし、それはバーチャルの世界のことで、作者はどこまでが良いか悪いか、わかってやっていることだ。二首目からは、休日の倦怠感が感じられる。テレビから聞こえる声は「笑う」ではなく「嗤う」。漢字の使い方で、テレビ番組がそんなに健康的ではなく、むしろ卑しいもののような印象を与える。三首目は、どこかから苦情の電話がかかった場面。相手は作者に対して怒っていて、作者の人格を否定するようなことまで言っているようだ。ところが、受けた作者は、その声つまり意見を聞いて、大蛇の腹に呑まれよ、と言う。相手と同じ土俵で戦うのではなく、苦情の出た事象だけ、声だけに取りあえずは消えてもらいたいと言う。大蛇の腹が出て来るのが、民話のようでおかしみをもたらす。現代人にありがちな倦怠感ももちろん持つけれども、それを俯瞰する目があるので、最後は何とかやりすごすことができる。大人の態度である。歌の魅力というのは、基本に確かな技巧が必要であるが、最後は作者の人間的な魅力に支えられるのではないだろうか。魅力ある歌を作るのは、人間としての魅力を持つ人だ。

 ここで、話は戻って、現代短歌社賞の対価である歌集出版について考えてみたい。以前から歌集を出すには、自動車一台分のお金がかかると言われている。しかも、いろいろな思いがあり、歌の取捨選択、構成は難しい。譬えるなら、作品はわが子であり、わが子を家から送り出すようなものである。出て行ったらそれっきり。後戻りはできない。今回の応募者全体のことはわからないが、予選通過した三十人について見ると、応募者の年齢が非常に高い。受賞した森垣岳は、最年少で三十一歳。七十歳代が一番多くて、十一人。六十歳代は七人。八十歳代も二人居て、最高齢は八十一歳だ。短歌を続けていると、だれもが歌集を出したいと思うものだ。費用のことなどもあり、出来ないまま高齢になってしまった方の記念碑的な応募もあったかと想像してしまう。とにかく、そのパワーには圧倒される。もちろん、歌集出版をきっかけに今後歌壇で活躍することが本筋である。
今回の森垣作品三百首の全貌を、筆者は知らない。選者による三十首抄と選考座談会で話題にのぼった数首を読んだだけである。今後、歌集としてどのように構成されるか、その全貌を見るのがとても楽しみだ。三十首抄では、結婚前夜の歌の前に、「妻の肉体を暖め」る歌が置かれていて、辻褄が合わない。このままでは読者は混乱する。似た文体が続くところがあれば、調整が必要だ。きっとこれから真剣な推敲が行われることと思う。余談ではあるが、筆者が第一歌集を出すにあたって、師である小池光氏から言われたことは、「今の目ですべての歌を見直して推敲しなさい」という一言だった。
現代短歌社賞受賞という栄誉を最終のものとせず、歌集そのものを自己ベストの作品とするべく、これから頑張っていただきたい。期待を込めて、この小文を終える。

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