◆つれづれ歌雑記 その1「こがらし」 喜多弘樹
「海に出て木枯帰るところなし」(山口誓子)という名句を口ずさみながら、秋の終日を尾鷲に遊んだ日のことを思い浮かべている。もう霜月なかばを過ぎると、山からの木枯らしが尾鷲の海へと吹き下っていることだろう。尾鷲は雨の多い土地として名が知られているが、風光明媚な要害の地であり、かつては熊野の九鬼(くき)水軍の拠点でもあった。
尾鷲行は、生前より前登志夫先生と深い交流があった仲宗角さんの招きによるものである。仲さんは歌誌『コスモス』の旗本の一人であり、師の宮柊二も寒鰤の季節になると何度も尾鷲を訪れていた。「私の山小屋から、晴れた日には前さんの住んでおられた広橋あたりの山が見えるんですよ。ほとんどは雲に覆われていましたがね。もう、いないと思うとさびしいものですなあ」
感慨深そうに仲さんは、那智黒石(なちぐろ)が転がっている七里御浜を散歩しながら話された。
「熊野と吉野は地続きですね。土蜘蛛と井光(いひか)、神倭伊波礼琵古命(かんやまといわれひこ)の侵略に抵抗した先住土着民・・・・・・」
「前さんの母上の里の天川郷は土蜘蛛だから、よく前さんは井光とのハーフだと言ってましたよ」
「井光や国栖(くず)は権勢に対しては逃げ隠れするか平伏してしまうか、軟弱ですね。ぼくなんかも、親父の里が『古事記』に登場する津振川あたりですから、ダメですわ。その点、土蜘蛛はしたたかで屈強で、つねに権力に刃向かってきた。しかし、尾鷲は不思議な土地ですね」「ああ、ここでは敬語というものが存在しない。慇懃無礼と言われようが、これも熊野アイヌの血だから」
「熊野アイヌですか?」
「そう、土蜘蛛の祖はアイヌでしょう。アイヌ語の地名も残っています。だから、いくら髭もじゃでも腋毛がない」
そう説明しながら仲さんは豪快に笑った。それだけで、吉野に対する熊野の意味が少しばかり了解できた気がした。
吉野の妹山の大名持(おおなもち)神社あたりの川瀬には熊野の潮が湧く岩があるという伝承なども思った。大名持は大穴牟遅神、つまり大国主神。隠れたる国を治めるという名目で出雲へ追いやられた神である。
いまや吉野の名産ともなった柿の葉寿司も、その塩鯖は旧熊野街道を溯って運ばれてきたという。尾鷲から下北山村、上北山村を通り、吉野の川上村へのルートには、かの妖怪一本たたらの伝承をもつ伯母峰峠を越さねばならない。
地続きのかなしみ、それは血のみなかみへの恋慕でもある気がしてならない。 とほやまの峰越の雲かがやけるその 下あたり青き吉野か
ひそかなる風の渡りを聴く山にひと りのこころ甲ふことなし
伏流となりたる谷の石むらを渉りな づみてゐる人のあり
仲宗角第一歌集『臙脂雪』の「大臺ケ原」と題した一連の作。こうした繊細にして孤高なしらべに、私は尾鷲の海からはるかに仰ぎ見た吉野の山並みを思い、なつかしさがこみあげてきた。いったい、人が海彼(かいひ)からやって来て、浜辺に定住し、奥深い山にまで分け入って住むというのはどういうことだろうか。 歌の世界もずいぶんと住み憂くなってきたものだ。次第に居場所が狭められているという孤独感と無念さである。
帰化植物リスト なまえをてんてん とつないで春の星座の記憶
なつかしい野原はみんなとおくから 来たものたちでできていました
やすたけまり ああ檸檬やさしくナイフあてるたび 飛沫けり酸ゆき線香花火
うろこ雲いろづくまでを見届けて私 服の君を改札で待つ
山田 航 〇九年の短歌研究新人賞、角川短歌賞受賞作品より。歌の世界でも流行というものがあるのだろう。ほんものかどうかは置くとして、注目される作品である。一言でいえば、個性を競い合うことがただいまのはやりの姿であるようだ。若者が人生の夢や希望を失いつつある寒々しい世の中なればこそ、自らのこころの痛みや叫びを歌うのである。そんな時、歌のしらべは癒しともなる。
こんな作品にも出会った。「或る晴れた日のディテール」と題した作品(朝日新聞 〇九年一〇月一七日)。
頑なに口ごもる汝よ傷つきしものの 上には空高きかな
忘却の色は真緑 美しき春の森には オオルリが鳴く 佐佐木頼綱
こういうみずみずしい感性をもって歌う若者の作品には、無頼の傷があってもいい。鮮烈な血脈のたまものであろうか。