短歌とTANKA

前登志夫評         岩尾淳子

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もの音は樹木の耳に蔵はれて月よみの谿をのぼるさかなよ

 

青々とした樹木に覆われた深い山を切り分けるように流れる渓谷。その深みにも月のひかりが差し込んでいる。豊かな葉に梢は覆われ、太々と育った幹はまるで悠久の時間のなかに耳をすませて静まっている。静謐な森の夜、月影は澄んだ渓流の水の底にまでとどき、そこを一尾の魚が遡ってゆく。広大な宇宙のなかへ神聖な命の光りをはなつように。

 

鍔ひろき少女の帽子かむる日に信濃の山羊の紙のごとしも

 

 

鍔の広い帽子をかぶっている陽光の溢れる日、その明るさからふと作者のイメージは信濃ののびやかな牧場を呼び出している。信濃にどこか西洋のアルプスに近いあこがれがあったのだろうか。そこには山羊がのんびりと草を食んでいるのだが、その山羊さえも実在の重さを失って白い紙のようにイメージのなかで軽々と自由にあそんでいる。

 

 

あけはなつ真夏の部屋に入りくる甲虫も尾根もみな死者のもの

 

 

深い森林に覆われた山のなかの家。真夏には家のすべての戸が森へ向かって開け放たれている。どこらか黒々とかがやく甲虫が家に飛び込んでくる。その命のかがやきも、この深い森に生まれたもの。そしてこの家も森のなかの一部として存在している。いうまでもなく、森は命を循環させている宇宙である。そしてそこを支配するのは死者。ここでは生も死も一つに解け合っている。一匹の甲虫も、山の尾根もすべてはとこしえの死者に帰属していくのである。

 

地下鉄の赤き電車は露出して東京の眠りしたしかりけり

 

地上を走る区間に地下鉄がその赤い車体を外界に露出することにするどい違和感を感受している。それはあたかも冥界の神が姿をさらしたようになまなましく、そして痛ましい。しかし、今は都市も夜の眠りにはいろうとする時間。地下鉄の赤い車体は大都市のつかのまの眠りのなかに安堵するように現れている。

どこか官能性をおびて抱擁されるような歌。

 

手の孤独その手を落つる滝なれば叫びのごとく冬は会ふなり

 

手を体の一部から切り離して孤独なるものとして認識している。この手はすでに誰かに帰属する器官ではない。おそらく神、いや宇宙そのもののような存在だろうか。大宇宙の孤独さ、そこから流れ落ちてくる滝は叫びをあげながら、宿命のように冬という厳しさと遭遇するのである。滝という空間と、冬という時間とが交差する荘厳な瞬間をとらえ、叫びのごとくという喩が声をひきだしてひろがりを生んでいる。

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