短歌とTANKA

子午線の繭評               御厨 慶子

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1.ほしぐさの乾ける夜に誓ふべし萬の蛙の山上の弥撒(ミサ)

再読して初めて、ほしぐさはキリストが誕生した馬小屋のほしぐさではないかと気づいた。
ということは、萬の蛙の山上のミサはキリストの生誕を祝うもの、蛙の鳴き声はキリスト誕生の歓喜の歌声だと思われる。
スケールの大きい歌であるとともに、外国の方に是非鑑賞してほしい歌だ。

2. 新しき鋲うちこみつ預言する冬の衣装の座せる基督

宗教画などで見る基督というと、磔にされた半裸の姿のイメージが強い。
冬の衣装で座せる基督というのは、もしかしたら、前登志夫自身ではないか。
冬の衣装を着て、自身のこれからの未来を切り開いていく決意のようなものが、新し鋲うちこみつに込められているような気がする。

3.合唱のごとくにふれる峡の星ふゆしろがねの橋を渡りて

合唱は、色々な人の色々な声が寄り集まって初めてできる。そして、合唱曲を聞いてみると、シャワーのように、声が降り注いでくる。
前登志夫はそれをふまえて、合唱のごとくにふれる峡の星と詠んだのではないだろうか。空から色々な星がシャワーのように降ってくる情景が目に浮かぶような一首である。

4.弾き手のなきギターよ忘却の生なりしかば砂地をなしき

弾き手のないギターが忘れられた生であるというだけでも、強い虚無感が漂っているのに、それに重ねて、結句が砂地をなしきとなっている。
一首を通じての空しさ、虚無感は前登志夫自身の生が忘却の生であるという意識、ひいては、人間の一生はどんな人であっても、所詮は忘却の生であるという諦念によるものであろう。

5.岩に来る鶺鴒一羽うつしみの妻とわれと聞く皿の上の楽

詞書きに山代温泉にて古九谷を観たという意味の文がある。
絵画や陶器などの芸術品を歌に詠むのはとても難しい。ともすれば、その芸術品を称賛するだけの歌になりがちである。
ところが、この歌は皿の上の空間とうつしみの現実の空間が三十一文字の制約の中で、詠まれている。二つの異空間が、見事に溶け合っている。
それを可能にしたのは、皿の上の楽というスリムでインパクトの強い結句につきるであろう。

2024年4月
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