もう村の叫びをだれもきかうとしないから村は沈黙した。わたしの叫びの意味を答へては
くれぬ。人はふたたび、村の向う側から、死者のやうに歩いてこなければならない。芳しい汗と、
世界の問をもつてーー
夕闇にまぎれて村に近づけば盗賊のごとわれは華やぐ
家を継ぐ為に都会から帰ってきたものの、寒村のくらしのなかでの彼の魂はどこかうしろめたく孤独であったと想像される。この歌の「盗賊のごと」という悪びれや、そのうしろの「華やぐ」という逆説的な表現がひときわ鮮烈である。
帰るとは幻ならむ麥の香の熟るる谷閒にいくたびか問ふ
都会にあこがれて、ふるさとを出たはずの若者が、故郷の谷間にむかって(帰るとは幻ならむ)とくりかえす。この夢のような狂おしい自問のなかで「麥の香」が青年の心中の悲哀を物語っている。
暗道のわれの歩みにまつわれる蛍ありわれはいかなる河か
蛍は古来より歌に詠みつがれ、この場合もしっとりとした古典的情感を漂わせている。しかし調べは現代的で、第四句の途中で「蛍あり」と終止して上下句を大きく分断し、その後転調して第四句ののこり「われは」は第五句「いかなる河か」と一続きである。つまりこれは所謂「句われ」であり、従来禁忌であるはずの「句われ」がむしろ心地よい響きをうみだし、後半の大胆な飛躍を強く響かせている。
ぬばたまの夜の村あり高みにて釘を打つ音谷閒に聴けり
真っ暗な夜の村があり、山の高いところで誰かが釘を打っている音がはるか下の谷間にまで聞こえている。釘を打つのは恐ろしい山姥かなにかのように思える。幻想的な夜の風景である。
猫背して村行くわれにひそひそと村びとは隠す壺の如きを
背中をまるめ猫背の姿勢になって歩いている「われ」がいる。村びとはひそひそと噂し合い、なにか壺のようなものを隠したという。閉塞的で変化のない村のくらしのなかで都会の匂いのする彼の存在がひときわ珍しく、なにかとゴシップの種になっていたことが想像される。
いくたびか春立たむとし檜の山にひと振りの斧入りて行きにき
「私」が村に帰って来てから何度目かの春がもうすぐ来ようとし、ある日、檜の山に斧をもって入って行ったのであろう。一首は人の姿を描かず、斧を擬人的にあらわしたところに眼目があるが、「入て行きにき」ははたしてどのような意味か。「〜て〜にき」は古典に次のような例が見える。
過ぎて去にき(「はかなくなってしまった」万葉集巻2・207)
咲きて散りにき(「咲いて散ってしまった」万葉集巻10・2289)
これら古典の例はすべて「〜てしまった」という意味に解せられており、その解でいえば「ひと振りの斧」は「山に入って行ってしまった」となる。つまりその斧を持つ人が山へ入ってそのままどこかへ行ってしまったのではないか、という謎を思わせるのである。「春」「檜の山」「斧」と清閑な山の空気の支配するなかに、存在のひそやかさが胸に刺さる。