短歌とTANKA

楠誓英氏と森垣岳氏     田中教子

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一、個性の対立

楠誓英氏と森垣岳氏に、はじめて会ったのは十年ちかく前のことである。当時二人は、大学を卒業寸前の二十一、二歳であったと記憶している。小学生時代からの友人で、ティーンエイジャーの頃より蘭の株分けなどを通じて親交をふかめた間柄と聞いた。しかし蘭の株分けとは、なにやら裏のご隠居さんの盆栽趣味に似た響き‥‥また、茶道や書道や日本画、手捻りの焼き物など、極めて落ち着いた趣味を数々持っておられた。どうやらそうした趣味の果てに、ついに短歌の世界にわけ入ってこられたようであった。

当時のふたりは、ともに戦前の文学青年のような風貌をたたえていた。ある場合は近寄り難ささえ感じられた。しかし、この二人の歌は当初から似ているところがなかった。

楠氏は、戦前の上海居留地が似合うようなアンニュイさと耽美な世界への傾斜が伺える青年であった。当時彼はこんな歌を詠んでいた。

 

妖精の死骸のような花しべが教室の床に転がっていた  楠誓英

 

これは、平成二十年の「ナヅノキ」第一号の作である。作歌をはじめてすでに数年が経過し、その才能は開花の兆しをみせていた。この歌は「妖精の死骸」という、妖しく美しい比喩を現実世界のなかに持ち込んでいる。

 

水槽のポンプの音のする教室に吾が影のような少年一人  楠誓英

 

これも「ナヅノキ」第一号の楠氏の作である。今日、処女歌集『青昏抄』において「影」という言葉が多いと指摘される楠氏であるが、この頃からすでに「影」は多用されていた。この歌の少年は言うまでもなく彼自身の投影である。あるいは少年は現実には存在せず、幻の少年を描いていただけかもしれない。こうした自己の幻影をあらわす場合、どうしても甘さがつきまとうが、「水槽のポンプ」という懐かしさのある生活臭によってそれは幾分緩和されている。楠氏の歌は、本人の麗しいキャラクターと相俟って、当時の友人知人から、多大に賞賛されることが多かった。

一方、森垣氏は、実直に生きる生活者の実存に、ナイーブに揺れ動く内面が見え隠れしていた。

 

たんぱく質分解酵素の働きを教えるための青きパパイヤ  森垣岳

 

これも「ナヅノキ」第一号の歌である。当時の私たちの若い集まりでは、このような氏の歌の魅力は、まだ十分に理解されてはいなかった。だが、私は、氏の理科的な視点こそが捨てがたい魅力であろうと見ていた。

そしてまた森垣氏には、独特のユーモアのセンスがそなわっていた。「ナヅノキ」第一号には、

 

高級なバックの為に飼育されるワニの眼は鋭かりけり  森垣岳

 

という歌がある。森垣氏は博識で動植物や多くの酵素に精通されているが、これなどは、所謂雑学から出た皮肉の歌である。ところが、この歌は私にとっては痛いところをつかれた感があった。

かつてシンガポールに鰐皮工場というものがあり、私はそこへ幾度か見学に行った。飼育されていたワニたちの眼は、動物園の平和な鰐よりも、たしかに鋭かった。当時のレートの加減か値段を聞くと驚く程安かったので、私は出来心でハンドバックを一つ購入してしまったこともある。ただ、この事実について、森垣氏が知っておられたかどうかは定かではない。

このように、楠氏と森垣氏のふたりは、当初からまったく違う個性であった。つねに良き友人であり、よきライバルとして今日まで切磋琢磨してこられた。下世話な昔人である私は、彼らを見ていると、つい星飛雄馬と花形満のことを思い出す(そんな古い漫画は知らないと言われそうだが)。つまりは、運命のライバルという関係を両氏の上に思うのである。良きライバルこそは、互いの人生の最高のスパイスである。

両氏は、この度、連続して現代短歌社賞を受賞された。実を言えば短歌現代新人賞のときの連続受賞であった。また楠氏は、昨年賞の副賞として出版された歌集『青昏抄』により現代歌人集会賞を受賞された。折しも阪神淡路大震災から二十年めという記念すべき年まわりで、神戸市兵庫区在住の彼は、震災を短歌で語り継ぐ青年として、また若き歌壇のヒーローとしてその立ち位置を確立しつつある。

今号ではふたりのお祝いとして批評を募った。喜多弘樹さん、岩尾淳子さん、近藤かすみさん、ダニエルさんに、この場をお借りして、あらためてお礼を申し上げたい。私は、これまでから二人の作にはかなり親しんできたので、ひかえるべきかとも考えたのであるが、ここで今一度、今号に投稿された作を見つつ考えることにした。

 

*=*=*

 

二、楠氏の歌

今号に投稿された楠氏の作は「レニングラードの雪」と題された十五首である。楠氏は、投稿に際して、自ら作品傾向を分析され「静まってゆくもの、傷ついたものに美を見出す」とされたうえで、次のように記しておられる。

 

「高校時代、世界史の資料集でローマ時代の彫刻「瀕死のガリア人」を見て感銘を受けました。その彫刻は、面は深くうなだれ、もはや生気を失った肢体が右手によってかろうじて支えられているといった傷ついた青年の像でした。そこには間違いなく、「絶望」がありました。けれども、私はそれを可哀想だとか陰鬱だとかは思いませんでした。むしろ、美しいなと思ったほどでした。そうした感覚は、後にドストエフスキーを耽読することにつながっていきました。ドストエフスキーも「絶望」を描いたからです。」

 

ここに氏の美意識が告白されている。

氏が魅了されたという「瀕死のガリア人」は、紀元前二三〇~紀元前二二〇年頃にペルガモンのアッタロス1世がアナトリアのガリア人との戦いに勝利した折の彫刻である。像は、戦いに敗北したガリア人が地に手をついて項垂れている場面で、これが楠氏の「傷ついた者に美を見出す」例である。

さて今号の歌をみると、

街灯の黄光の中に立つ一樹片側は夜に削られてゐつ  楠誓英

 

という歌が最初にある。これはおそらく実景だろう。夜の外灯に照らされた樹が妖しい。日常を妖しく美的にデフォルメするところから一連は、はじまっている。

 

光の中うつむき続ける細き男近づけば古き街灯になる  楠誓英

 

これは、所謂錯覚の歌である。はじめは人間だと思って見ていたものが、近寄ると、無機物の外灯であったという。類型が以前にもあったが、誰の身の上にもおこりがちな錯覚といえる。「細き男」が気になる。今号の氏のコメントやタイトルとの関連からすると、この「細き男」はあるいはドミトリイ・フョードロヴィッチなどが想定されるべきかもしれないが、私には、楠氏自身の幻影であるように思える。かつて「ナヅノキ」第一号に「吾が影のような少年」という歌があったように、氏のイマジネーションの世界には、たびたび自らに酷似した存在が現れるのである。

 

片側を闇にのまれてそよぐ樹を観ればかつてのわたくしならん  楠誓英

 

これは一首目の樹が、過去の自らの内面そのものであったという比喩の歌である。ここに自らと似た存在として樹木が描かれている。

 

言ひ過ぎたぼくを見下す瞳かと夕空を背に皇帝ダアリア  楠誓英

 

この歌の「ぼく」という一人称には、やや甘えたような印象をうけるが、「言ひすぎた」ことへの後ろめたさからでた表現であろう。皇帝ダリアは高木で大きな花を咲かせるため「見おろす」のであり、「瞳」は皇帝ダリアの花そのものだろうか。「ダアリア」という呼称は北原白秋からの影響だが、いかにも退廃的な匂いがする。

 

水中より君を眺めし少年のいまのその光(かげ)眼底にあり  楠誓英

 

はたしてこの歌の「少年」は何を思って「君」を見ていたのだろうか。水中の少年は、彼がたびたび使ってきたモチーフである。この世ならざる光を見る少年の目に「私」はなにかを気づいたわけだが、この少年は、実はほかならぬ「私」そのものではないか。そもそも水中の視線になど、いったい他のだれが気づくというのか。

くりかえされる水中の少年のモチーフは、もともと彼自身の投影だったのか、それとも、純然たる他者の写生であったのかは判然としない。しかし、モチーフとしてくりかえすうちに、ほかでもない彼自身に重なったものとみえる。

 

吊革を両手でつかみうなだれる傷兵のごとく輝く青年  楠誓英

 

これは電車にいた人を詠んだものだろう。「傷兵のごとく」ありながら「輝く青年」は「瀕死のガリア人」そのものである。楠氏の歌には、少年や細身の男など、自身の分身かと思われる存在がしばしば登場する。それは作歌の初期から見られた傾向が、ここにおいて多面性をおびてきているようにも見える。

また、彼が趣向する「静まってゆくもの」の歌には、

 

自転車は倒れ後輪が回るまはるさうして静まるまでを見てゐき  楠誓英

 

がある。一般的には自転車は爽やかな若さの象徴にもちいられるが、ここでは倒れて後輪だけが回転している。立て直そうともせず止まるまでをながめている心理に危うさが垣間見える。

こうした楠氏の歌は、陰りのある美を標目し、あまり健康的とは言えない。しかし青春とは、憂鬱で病やすい季節でもある。そうした理解のもとに、今後、まだしばらくつづくであろう彼の青春期を見守りたいのである。

 

*=*=*

 

三、森垣氏の歌

つぎに森垣氏の歌について見てゆきたい。今号の森垣氏の歌のタイトルは「黒い花びら」である。氏は、つぎのようなコメントを書いている。

 

「植物に黒い色素は存在しない。紫や茶色の色素が普通の植物よりも強く発色しているにすぎない。それでもなお黒い植物を人々が求め、品種改良されるのは万物の根源を黒という色に見出しているからかもしれない」

 

これを見ると、すこし大げさに感じる部分もあるが、人間の心理をみごとについている。

「黒」は禍々しい色である。だが、森垣氏にはあまり禍々しさはないように見える。

 

ぬばたまのブラックコーヒー一杯の苦さに気付き死期を伸ばそう  森垣岳

 

コーヒーは禍々しくはないが、たしかに黒い。そのうえ最近では、身体によいといわれているが、そのこととこの歌が直接関連しているかどうかはさだかではない。初句に枕詞を配し、結句に「伸ばそう」と口語を用いた。

 

ポケットの中黒々と夜があり 余命わずかなアプリがひとつ  森垣岳

 

ポケットのなかも黒い。黒いというより暗いのだが、それはさておき、ポケットの闇に光るアプリが瀕死の光を放ていることを想像する。終末はいかなるものであっても寂しいのである。
また、次のような歌も愉快に思われた。

 

花束を妻に送りぬ花束をもらえる価値のなき夫より  森垣岳

 

歌によれば、森垣氏は感心にも妻へ花束を贈ったようである(ほんまかいな)。彼は昨年春に結婚し、秋に一児の父となった。これは妻への出産祝いかなにかだろうか。それにしては、自分にはどうせくれないんだろうと、あらかじめ牽制球を投げている。はて、これはいったい何ゆえの牽制球であろうか。世間には花束をもらう奥さんは多いが、花束をもらう夫というのはあまり聞いたことがないからか・・・と、考えたところで、いや待てよ、と思った。この一連には、

 

花一輪もらえぬままに日の過ぎて真冬の夜の夢と気付けり  森垣岳

 

という歌もある。さては、これはある方面への当てつけの歌か、と気がついたわけである。しかし、そのように気をまわして解釈しなくとも、充分に寂しい歌でもあるか。

 

ダアリアの花の黒さの中に立ち「アバダ・ケダブラ!」光を放つ  森垣岳

 

森垣氏には以前から魔法関連の歌が見られる。「アバダ・ケダブラ!」は、ハリー・ポッターの死の呪文だ。いったい誰を殺すつもりか。足りない妖しさを足すために楠氏の「ダアリア」を拝借された模様である。

 

一人きり夜道の果てよりエクスペクト・パトローナムの守護霊が来る  森垣岳

 

これもハリー・ポッターである。映画の中でハリーは、この呪文でディメンターを次々にやっつけていたが、実は「守護霊よ来たれ」という意味らしい。そうすると言葉が重複している気もするが、細かいことは気にしないほうがよい。

 

チューリップの黒き花弁よ本当は嫌だと言ってしまえば楽か  森垣岳

 

この歌を読んだとき、かつて塚本邦雄が「二物衝撃」と評した斎藤茂吉の作が頭に浮かんだ。つまりは、よくわからない歌だが、今回の作中で、もっとも心に響いたのである。それは「本当は嫌だ」が、そういえない葛藤と、チューリップの「黒」がコントラストをなして印象をふかめているためである。

こうして見ると、歌から森垣氏の現代性、素直さ、朴訥さ、ユーモアを感じることが出来る。なかでも一見なんでもなさすぎることを次々歌にして、さほど凝った形跡もないのに、どこかおもしろい、と思わせるのは、江戸時代の後半に流行った「ただごとうた」の感覚に近い。
世に凝った歌があふれ、自意識過剰気味の表現の氾濫のなかで、こうした森垣氏の歌に出会うと、まるで緑のオアシスに出くわした砂漠の隊商の気分になるのである。

 

*=*=*

 

四、結び

両氏の個性は、遥かにかけ離れているように見える。長年一緒にやってきてこれほど歌柄がかけ離れることもめずらしいが、思えば当初から違っていたのだから、ますますかけはなれたとしても無理はない。こうした個性の対立によって、彼らの均衡は保たれてきたのかもしれない。彼らは、遠からず、二つの巨星となって、短歌の世界に輝きわたる日が来る、と私は信じるのである。

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