短歌とTANKA

「BUFF POINT DAYS」読後      田中教子

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今回、アメリア・フィールデンさんのTANKAをご寄稿いただきました。アメリア・フィールデンさんは、オーストラリア在住の翻訳者であり、2007年短歌の翻訳にて、コロンビア大学からドナルド・キーン賞を授与され、故・河野裕子作品をはじめ数々の短歌の翻訳を手がけて日本でもよく知られています。また、アメリアさんは、オーストラリアにおいては、詩人、TANKA作者としてもよくしられています。
今回、アメリアさんがご寄稿くださいました連作のタイトルにある「BUFF POINT」は、アメリアさんのお住まい地域の地名です。この作はオーストラリアの豊かな自然を材に、日本の短歌の伝統に影響を受けた作風が展開されています。
 TANKA連作はまず、

sometimes
kookaburras start
their laughing song
before the blush of dawn
colours the eastern sky
(時折/カワセミたちがはじめる/彼らの朗らかな歌を/夜明けの茜/東の空の色)

という夜明けの場面からはじまります。鮮やかな空の色にカワセミの囀りを「their laughing song」とやや擬人的に捉えたあたりに、作者の心の楽しく明るい様が伺えます。二首目は、

each morning
early rainbow lorikeets
are here
feasting on the flowers
of our golden grevillea
(朝朝/早起きのゴシキセイガイインコが/ここに来る/花を食べに/我が庭のグレビレアの花の盛り)

という歌です。ゴシキセキセイインコは、オセアニアから東南アジアの熱帯雨林に棲息する色鮮やかなインコです。グレビレアはオーストラリア原産のヤマモガシ科の常緑低木で、日本では見ることのないめずらしい紅い花です。オーストラリアならではの色鮮やかな自然が描かれています。一首は、日本の短歌の写生に学んで、身近な自然をありのままに描いています。
三首目は、

later
as we walk by the lake
a blue heron
poses in the shallows
cormorants plunge for fish
(その後/我らが湖のそばを歩くほどに/一羽の鷺が/浅瀬にポーズをとり/鵜が魚を狙って飛び込む)

という水辺の鳥の歌です。初句の「later」は何の後なのか、すこし謎めいています。「we 」とあるのは、夫婦で散歩をしている情景を想像します。鷺や鵜がいて、川のなかで魚をとっている。なんと豊かな自然でしょうか。これも身近な自然をありのままに捉えた作です。

perching
on the bridge’s light poles
an absurdity
of pink-billed pelicans —
one opens its wings wide
(止まっている。/橋の上の外灯に/滑稽な/ピンクの嘴のペリカン/一羽が翼を大きくひろげる)

これは、橋の上に外灯が並んでおり、ピンクの嘴のペリカンが何羽も止まっている。そのなかの一羽が、大きな羽をひろげたのが印象的に見えたのでしょう。ペリカンは日本では動物園でしかみられませんが、オーストラリアでは野生に生息し、群をなして空を飛んでいます。時折は人家の庭先などにもやってきますが、羽を広げると意外に大きく、愛嬌もあり、しばしば人を驚かします。

scattered
among wild freesias
white cockatoos
foraging for seeds
in the cliff-top grasses
(散らばっていた/野のフリージアの中/白い鸚鵡が/種をついばむ/崖の上の草生に)

この歌では、フリージアの自生地に種を啄む白い鸚鵡がいるのですが、遠景ではどちらが白い鸚鵡で、どちらが白いフリージアだかわからない程であったかもしれません。つまり歌は、白いフリージアの花と白鸚鵡の姿が似ているという面白さによって詠まれたのではないか、と想像します。

fluffy clouds
of rose-breasted galahs
drift at dusk
over darkening trees,
coming home to roost
(ふわふわの雲のように、胸の赤いインコの群が宵闇に漂う。暗む樹々の上をねぐらに帰ってゆく)

夕方、赤いインコの胸が、宵闇に漂いながら暗い樹々の上をねぐらに帰ってゆきます。空を飛んでゆくインコの胸が夕雲のようだという比喩が新鮮です。

there’s a saying
‘home is where the heart is’,
yet my loves
are gone away, flighty
as wild budgerigars
(ことわざに/家庭は愛のある場所という/いまだ私の愛は/気まぐれに過ぎ行く/野のインコのように)

最後のTANKAには格言がつかわれていました。「家庭は愛のある場所」という意味の格言ですが、この言葉にひきかえ「私」の愛は野生のセキセイインコのように気まぐれだというのです。セキセイインコは日本ではペットとしてよく飼われていますが、オーストラリアでは野山を大群で移動している鳥です。美しく愛らしい鳥ですが、群は、壮大で荒々しさもあります。しかし、ここでは庭に来たセキセイインコが枝にとまっては去る様子を「気まぐれ」としているのではないかと考えられます。恋に揺れる女性ならではの心情が、アメリアさんの内側に秘めた想いとして、いまもあるということと解せられます。この連作のなかで、この一首がもっとも西洋詩的に感じました。

このように連作をみて参りますと、アメリアさんの作は、日本の短歌の写生から学んだところがあり、また巧みな比喩表現は現代短歌に共通の感覚です。その一方で、アメリアさんの作には西洋詩的な心情表現もあります。つまり、短歌と西洋詩の融合こそが、詩人アメリア・フィールデンの作品の持ち味であると言え、同時にそれはTANKAの可能性であるとも言えます。
今回のアメリアさんの連作に、心の豊かさや生命の営みを感じることができました。それは彼女が求めている精神世界の体現かもしれません。オーストラリアの空気のように澄みわたり、気持の良い作品世界、ここから彼女の深い人柄もしのばれてまいります。

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