短歌とTANKA

あやまちて人は生まれしならず   喜多弘樹

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 前登志夫先生がこの世から辞されて、はや一年半を過ぎてしまった。どうしようもない深い喪失感に茫然としたまま、この不肖の歌弟子に何ができるか考えあぐねていた。

    できるだけおのれかすかにあるべしとゆふかぜ立てる旋律にゐつ 『鳥總立』

ふと、先生が壮年期に書かれた『存在の秋』に収められている陽勝仙人の寓話が思い出された。山林行者のついの課題である食断ちの行を始めた陽勝仙人の姿が、とある日見え

なくなった。みんなが八方探したがどこにもその姿はなく、庭の松の木の枝に日ごろ着用した袈裟がかかっていたという。陽勝仙人が飛行自在となった時、その法衣は、すでに脱ぎ棄てられるべき付属品にすぎなかったのであろう。三十一文字の表現だっておなじことかもしれない。定型をおのれのものとして、表現の自在を得るのは並大抵のことではない。ところが、さらにそこを突きぬけていくとどうなるか。定型が、ほんとうの最後の力をふりしぼって、定型の機能を発揮するときは、みずからはみすぼらしい五句三十一音の単なる形式として、そこに脱ぎ棄てられるのではあるまいか。  「ホトトギスの夜」先生は、人間のかかえている煩悩や修羅のすべてを脱ぎ棄てて、あるいはかかえたままだったかも知れないが、歌という定型の殻だけを残していかれたのかも知れない。悲愴なまでの自我意識と賢しらな観念の忘却が先生の晩年に向かっての志向であったと思われてならない。なんとか一息ついた。しかし、先生の思い出にしんみりと浸っている余裕もなさそうだ。私の心の中では、存在としての前登志夫はいまだに生き続けているのである。いまでも吉野山中に行けば、槙山の木陰から手を「おーい」と振り、おだやかな笑顔で迎えてくれそうだ。しかし、一方ではきびしく睨みをきかされているようで、安閑としてはいられない気分である。本当のところは、先生がいなくなれば、歌誌『ヤママユ』もろともに、いさぎよく歌の世界から散ってしまおうと心に決めていた。だが、先生は私に『大乗歌壇』(西本願寺の月刊誌)の選者という重たい宿題をたくしていかれたので、簡単に辞去するわけにもいかなくなった。毎月の選歌は冷汗三斗、おおいに苦しめられている。だいいち先生の代わりなどできるはずもないからである。

私と先生とは郷党である。先生は吉野の下市、私はもう少し吉野川上流の上市という町で高校時代なかばまで暮らしていた。角川写真文庫の『吉野紀行』が出たのが私の中学時代であったと記憶している。たまたま私の父が俳句を作っていたので、地元の文学サークルの集まりに先生がひょいと顔を出すこともあったらしい。

「歌が負けてますなあ・・・・・・」

葛城の一言主神のごとくぼそっとそうつぶやいて、あとはお酒を飲んでそのまま愛用車のクラウンを飛ばしてムササビのごとく去ったという。そんな頃、『吉野紀行』を読んだ。少年の私は、その序文にかすかな戦慄を覚えた。それは通俗な吉野の観光案内の書ではなかった。一冊が壮大な交響叙事詩のように感じられたのからであった。この夏また吉野を探るらしいね。去年、新緑の頃存分に歩いたばかりなのに−−。 こんどは吉野の川のみなかみをたどり、もう廃道となった峠の道なども歩いて、歴史 以前のところまでさかのぼるという。そこから何かを持ちかえってくることを祈っている。・・・・・・つきつめれば吉野は山々と青山から 流れる水があるばかりだ。じつはぼくは、 こういう吉野の貌にはなはだ満足していることを告白するが、吉野の旅からなにかを持帰ることを、早急にきみも期待してはいけないだろう。いわゆる旅の収穫はないかもしれない。むしろぼくらがそこに何かを置き忘れたり、投げ出してくるような旅のかたちを強いられる風土ではないか。・・・・・・この夏、きみの歩く山道で驟雨に逢ったりしたら、いまでもきみは蒼く尾の光る 原住民の呪術を稲光りの中に見るかもしれない。澄みきった秋の日に、鬱蒼たる杉山の中で木洩れ陽にたわむれる泉に出会ったりすると、記紀歌謡の原初のリズムを想い出すにちがいない。・・・・・・さらば千年の反響の中を歩くきみを 祝福しよう−−反世界の空の下でたびたび 道に迷うひとりの青年を。

「先生の『吉野紀行』に感動して、何度も龍在峠を越えて吉野へ入りました。大峰の山々の連なりを眺めていると、まさしく空の冥府という形容がぴったりですねえ」

「そうか、あの峠越えの道はええやろ。み吉野の耳我嶺に 時なくそ 雪は降りける・・・・・・壬申の乱の舞台や」

「でも、龍在峠から尾根伝いに芭蕉が『雲雀より上にやすらふ峠かな』と詠んだ芋峠へ行こうとしたんですが、いつの間にか道がなくなってしまって難渋しましたわ。険しい杉山の斜面をふもとまで転げ落ちるように降りたりして」

「ああ、あれなあ。君だけやない。みんな道に迷うんや。いつの間にか道が消えてしまう。けもの道というやつやな」

「どうしてですか?」

「いや、それは、ちょっと・・・・・・ぼくの案内不足かな。悪かったなあ。で、原住民の呪術でも見たか?」

「いえ、見るほどの余裕もありませんでした。とにかく人里までたどり着くのが精一杯で」「うん、うん、そうか」

先生の吉野山繭庵を訪ねては、こんなとりとめもない話をしながら、夕焼けが白い障子を染める頃まで居座り続けた。お酒を飲み、煙草をふかし、次から次へと振る舞われる奥様の手料理に満腹になった。そして、庵を辞す時には、きまって戸口まで見送りに出てくださり、ぼくの姿が見えなくなるまで、大きな朴の葉のような手をひらひらと振られておられた。当時の先生はひどく孤独だった。私のような青二才の少年にもていねいに、真剣に向き合って話してくださった。いったい、何を長々と話していたのだろうか。ちょうど第二歌集『靈異記』が刊行された頃のことである。

この父が鬼にかへらむ峠まで落暉の坂を背負はれてゆけ

朴の花たかだかと咲くまひるまをみなかみにさびし高見の山は

さくら咲くその花影の水に研ぐ夢やはらかし朝の斧は

をみなへし石に供ふる、石炎ゆるたむけの神に秋たてるはや

歌碑にも刻まれた「高見山」を詠んだ歌などは比較的わかりやすい一首だろう。しかし、この歌などを思い出すたびに、先生の山住みの寂寥と深い孤独感にいたたまれない思いがする。単なる写実の歌ではない。いや、平明なようであって、内実は風景と心象とが激しくせめぎあって火花を散らしているのだ。たかだかと空に向かって咲く朴の花とは、先生が好んで詠まれた素材であり、いわばそれは山人の時間意識の象徴ではあるまいか。いまここに生かされてある人間存在のはるけさであり、同時に非在の世界へと連なっていくかなしみをも共有している、そんな円環的な時間だ。。なぜ「高見の山」がさびしいのだろうか。私はいくたびもそう問いかけてみる。伊勢と大和との国境にそびえる青いピラミッドのような秀麗なその山は、孤高な歌びとの姿そのものである。しらべはおだやかそうに見えるが、むしろ私は激情の一首ととらえたい。朴の花も高見の山も、山に住み、生きる日のかなしみとしての悲愴なまでの詩的比喩であろう。もっともっと叫びたかっただろうが、それを精一杯こらえている苦しみが私の心には透けて見えてくるのである。それゆえに歌がひときわ輝きを増す。本当に前登志夫という歌人、いや詩人は吉野山中に棲んでおられたのだろうか。主なき吉野ヤママユ庵の槇山の斜面に立って、春靄にかすんでいる金剛・葛城の山並みを眺めながら、そんな単純な疑問に悩まされた日のことを、なつかしく思い起こしている。 たしかに先生は平成二十年四月五日、旧暦のきさらぎ尽日、桜の咲き始めた吉野山繭庵でこの世から辞去された。西行さんとの約束の締め切りであった、きさらぎ望月には間に合わなかったのだが、なんとかぎりぎりにその命を大空の彼方へと投函した。まぼろしの羽化堂。ここからとだえもなく桜のはなびらの流れる天上へと羽化していかれたのだろう、きっと。先生は時々突拍子もないことを言ったり、やらかしたりもした。いつも世間の常識からは遠くて、崖を飛んでみたり滑り落ちたり、行動そのものも無防備で、原稿の締め切りが過ぎても内心は別として悠然としておられた。詩人だった・・・・・・生得の。

「つきつめれば吉野は、連なる山々とそれらの青山から流れる水があるばかりだ」

と先生が『吉野紀行』の序文にしるして、はや半世紀が過ぎようとしている。吉野という悠久の歴史と文学の風土といえども、山村の風景は実に単調であり、そこにつつましく暮らす人々にもそんなに興味をひかれる話がたくさんあるわけでもない。しかし、そんな単調な山住みを自らに課して、先生はこの上もなく豊饒な世界を詠み続けられた。それは、もうたぐいまれなる詩的比喩の力によってもたらされたものと想像する以外にはないだろう。ヴァレリー、リルケ、シュペルヴィエルなど西洋の近代・現代詩を学び、二十代を鋭敏な現代詩人として出発したことを抜きにして前登志夫を語ることはできない。本来は非在であるはずのものをありありとこの世の風景として、さりげなく物語る。おのれを限りなくむなしうして、こころとかたちのすべてをおおらかな一世界へゆだねるという自在さから発想されている。自我意識や観念のすべてを投げ棄てた、いわば他力の比喩とでもいうべきだろうか。亡くなられる半年前ほどから、先生は事あるごとに「なるようにしかならん」と弟子たちにつぶやかれておられた。「歎異抄十三章を口づさむ」という一首があるように、自然法爾という親鸞さんの究極の言葉をひそかに心に刻んでおられたと想像している。一木一草にいのちの輝きを見て、鳥獣虫魚と素心のままで会話する。それは、『羽化堂から』の絶筆ともいえる最終章に口述筆記でつづられた「腹水に泳ぐ鮠」という渾身の一行にすべてが語り尽くされているではないか。第十歌集『大空の干瀬』の中にこんな一首がある。空高く栃の花咲き草青しあやまちて人は生まれしならず

「あやまちて・・・・・・人は・・・・・・生まれしならず」

繰り返し、下の句をつぶやきながら、私はよき歌の師に出会えたことを今あらためて感謝している。このやさしく語りかけるような一首があればそれですべてが了解できた気がした。たとえば、親鸞さんが師の法然さんの教えを信じ、かりに惑わされて地獄に堕としめられてもいっさい悔いはないと語ったように。吉野に帰山したのち、二十代の前登志夫自らが編集した郷土文芸誌『望郷』に、「上市」と題した詩がある。私の郷里だ。その町を歩むとわたしは旅びとになるのです背負っている憎しみが低い軒並のおびえがちなためいきに河原のように濡れてしまうのですいましもつやつやとした筏の群れに候鳥のように五月の夕べが憩ひわたしの爪はあわあわと樹液をかんじ傳説のねむりを憎まないのですわたしの額にしたしげな山よその頂きから町の夕暮を越える鳥よわたしの背を啄みて去れやわらかな抒情詩である。すべての郷土の先輩詩人たちが吉野を出て行ってしまった。一人吉野に定住しなければならなかった悔しみと孤独と疎外感。そんなものがなければ先生の歌も文学も熟成することはなかったかも知れない。おのれをむなしゅうする。それが、どれほどの苦行であるか。先生は臨終のきわまで、おおきな煩悩と激しい修羅を曳きずりながら、自ら仕立てあげた「山人」という影武者と向き合っていたにちがいない。できるだけ、おのれかすかにとつぶやきながら。(歌誌「星雲」2009年より転載)

 

 

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