短歌とTANKA

前登志夫と都市   田中教子

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あれは、前登志夫さんが亡なる二年程前のことだろうか。私は、一度だけ、大阪の阿部野橋駅で前登志夫さんと遭遇した事があった。幼かった息子を連れて動物園にゆく途中、駅からエスカレーターに乗って地下へ降りるところで、

「やあ、今日はどちらまで?」

と声をかけてきた人があった。驚いて振り向くと、なんと、それは前登志夫さんであった。

「これから朝日カルチャーなんですよ」

と笑って仰った。

朝日カルチャーは肥後橋にある。前氏の家からは、吉野から近鉄特急で阿部野橋に出て、そこから地下鉄御堂筋線で大国町へ。大国町で四ツ橋線で乗り換えて肥後橋というルートであろう。今、Yahooの路線検索で調べてみたところ、吉野から肥後橋までは所要時間二時間と出たが、前さんの家のある広橋から吉野駅まではずいぶんありそうな気がする。およそ三時間ほどもかかる道のりを、晩年までカルチャーに出講しておられたことになる。

私は常々、

 

崖づたふ夜の電車にひとり酔ふ離れゆ  く都市はすでに崖(きりぎし)   『子午線の繭』

 

という歌の場所は、どこかと考えていた。阿部野橋駅から吉野までを脳裏に浮かべると、まず穴虫峠で風景が一転するように思う。大阪と奈良の境にあたり、電車はいきなり狭い谷間に入る。現在は大阪教育大学が出来て、やや開発された感があるが、かつてこの場所は渓谷と呼んで差し支えのない風景であった。前さんはその風景を知っていたはずだ。特急なら阿部野橋からわずか三十分ほどしか走っていないが、ここで風景が一転し、街が見えなくなる。「すでに」とは、都市からさほど離れていない場所であるにちがいない。よって、ここがふさわしい、と私は考えた。

ところが、喜夛隆子さんの意見では、初句「崖づたふ夜の電車」の「崖」とは、近鉄吉野線の吉野川橋梁あたりとのことである。言われてみれば、たしかに、川づたいに吉野に入るあたりは「崖づたふ」感じがする。しかし吉野川橋梁は終点吉野駅にほど近く、都市は遥かかなた。「離れゆく都市」という表現が私にはどうもひっかかるのである。だが、前さんにとっては、橿原、大和高田あたりでも都市のうちだといわれれば、そうかもしれない、と、納得するところもある。ただ本当のところは、作者にしかわからない。わからないことを承知で、ああかこうかと思いをめぐらし、意見を戦わすがまた楽しいのである。

この歌にはニヒリズムを感じるが、その奥に流れる孤独は山人のそれではなく、都会人の特徴を示している。そうした関連でいえば、

 

地下鉄の赤き電車は露出して東京の眠りしたしかりけり    『子午線の繭』

 

真夜中のエレベーターは垂直にわれを降せり都市の地底に   『鳥獣蟲魚』

 

なども都会的な感覚である。

文庫版『存在の秋』の年譜によれば、前登志夫さんは、一九三八年、十二歳で奈良中学に進学して吉野を離れている。一九四三年に京都の同志社大学に進み、戦争を経て各地を遍歴、一九五一年に前川佐美雄に出会い、一九五二年ごろから民俗学に親しみはじめ、一九五八年に吉野へもどる。その後、一九七四年「大阪金蘭短期大学に招かれ、一五年の山籠りを解く」とある。以降一九九六年迄金蘭短期大学で教鞭をとる。こうしてみると吉野の山人として知られる歌人・前登志夫は、実は、その生涯の大半を都市で過ごしていた、と言えるのではなかろうか。

生前の前さんにお会いしたとき、歌は、人ならぬ恐ろしいもの、霊を感じられる土地でしか良いものはうまれない、というようなことを言われたのが印象深かった。おそらく、その言葉こそ、歌人・前登志夫の芸術そのものだったと思われる。

『存在の秋』のなかで、長谷川郁夫氏が、前登志夫にとっての故郷(吉野)は、さまざまな遍歴の上にようやく発見されたものであった、と言っている。つまり、前登志夫は、はじまから山人・前登志夫であったわけではない。彼は、実は都会人であったが、己の芸術の所在を探しもとめ、やっとの思いでみつけたのが「吉野」だったのだ。人それぞれに己の魂の所在は違う。私にとっての「吉野」は、果たしてなんであるのか。私には、いまだに分からない。

 

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