短歌とTANKA

  藤原惺窩         大石真由香

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 藤原惺窩         大石真由香

仏道を俗諦と呼び儒の道に帰せし惺窩の学を尋ぬる

人倫皆真也。未だ君子を呼び俗と為すこと聞かざると也。

我恐らく僧徒乃ち是(これ)俗也。聖人何ぞ世を廃するや。
*藤原惺窩:近世初期の儒者。二首目、三首目は林羅山編「惺窩先生行状」にある惺窩の言葉による。

   春日本

一組でありし互いの懐紙影抱きて各々ある春日本

墨映を抱けるツレに春日本も愛別離苦を思はざらめや

*春日本『万葉集』は、裏面に書かれた和歌懐紙の鑑賞のために本を解かれ、現在、一枚ずつの和歌懐紙として所蔵されている。

 

 

『万葉集』写本の研究をされている田中大士氏の著書『春日懐紙(大中臣親泰・中臣祐基)』(汲古書院 平成二十六年)に、こんな一節があります。

 

現在離ればなれになっている懐紙が、かつて一組であった互いの懐紙影を抱いてそれぞれに存するということも、ある感慨を誘う。

 

これを読んだとき、『徒然草』六十九段が思い浮かびました。

「書写の上人」という人は、法華経を読誦し続けた功徳によって「六根浄にかなへる人」となり悟りを開いた人物でした。ある旅先の宿で、豆殻を焚いて豆を煮るつぶつぶという音を聞いて、「疎遠な関係ではない私たちなのに、恨めしくも、私を煮て、辛い目に遭わせるのですね」と聞こえました。そして、火に焚きつけられている豆殻のばらばらと鳴る音は、「私が好きでやっていると思うのですか。焼かれるのはどれほどか耐えがたいことだけれど、どうしようもないのです。どうか私を恨まないで……」と聞こえたというのです。

田中氏もきっと「六根浄にかなへる人」なのだろうと思いました。

 

春日本『万葉集』は和歌懐紙の紙背に書かれています。

昔、紙が貴重品だった頃、一度使った紙の裏面を別の目的に再利用していました。一度使った紙はしわや毛羽立ちなどがあり書きにくいため、そのしわや毛羽立ちを抑えるために「打ち紙」という処理をしました。紙を叩いて平らに伸ばすという処理です。

この時、使用済み面を内側にして二枚をペアにし、水で湿らせながら叩くので、ペアで叩かれた二枚の紙には、お互いの墨の痕が鏡文字となってうっすらと写ります。これを「墨映」と言います。「かつて一組であった互いの懐紙影」というのは、このことを言っています。

ある和歌懐紙の紙背には『万葉集』が写され、本に仕立てられました。これが春日本『万葉集』です。この時点では、ペアになった二枚の紙は一つの本の別のページとして存在しています。

ところが、時代が変わり、仕立てられた『万葉集』より和歌懐紙が重視されるようになると、本は解かれ、さらに『万葉集』面があるために読みづらいという理由で、一枚の紙を表裏二枚に剥がすという作業が行われました。これを「相剥ぎ」と言います。

上手く剥がれない場合、どちらかの面しか残せないとしたらどちらを残すでしょうか。当然、当時重視された和歌懐紙の面が優先されます。そして、『万葉集』面は多大なダメージを蒙ったのです。古いシールを剥がそうとしてビリビリになるのと同じように、ビリビリに破れて棄てられてしまったページも多いことでしょう。

現在、春日本の『万葉集』面はごく僅かにしか残ってません。あとは、見つかった懐紙の、相剥ぎされてもなお懐紙面に滲み出ている鏡文字の僅かな痕跡から解析するしか方法はないのです。

(春日本についての解説は、前掲田中氏著書に書かれた内容をもとにまとめたものです。)

 

 

 

 

 

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