住吉御田植祭
住吉大社の奥に、いにしえの神の田が広がっている。ここでは毎年六月の半ばに、「御田植神事」が行われる。中世の風流(ふりゅう)のなごりをとどめたこの祭には、植女が登場し、八乙女が風流傘の周りを囲んで舞を舞う。八乙女の舞に歌われる歌は、古い歌謡である。
みましもしげや わかなへとるてやは
しらたまとるてこそ しらたまなゆらや
ほととぎす おれよかつよ おれなきてぞ
われはよたにたつ われはよたにたつ
歌の出だしの「みまし」は、二人称の人代名詞で相手を敬った言い方である。これは、神への呼びかけだろう。「しげや」は、
世中はいかゝはせまししげ山のあをばの杉のしるしだになし(拾遺和歌集)
などに見られる「しげ」と同じで、「茂る」の意の「しげ」だろう。ここでは「苗」にかかって、神に苗がよく茂るようにと祈る。
「ほととぎす おれよ」の「おれ」は、二人称で、相手を卑しめて言う。また、「かつ」は、時代劇などでときどき耳にする「きゃつ」という言葉で、これは三人称代名詞である。いずれも時鳥を卑しめつつ呼びかけている。
この歌を現代語訳すると次のようになる。
【あなたさまもお繁りか。若苗取る手ときたら、白玉のようで、その白玉の手こそ、白玉とゆれることよ。ほととぎす、おまえよ、きゃつよ、お前が来たから、私は田に立つ。私は田に立つ。】
田に立つ私は、植女。しかし、それなら「白玉の手」とは誰の手か。これは、植女の手であり、また神の手である。神が田にやってきて植え女の手に力を与え、苗に生命の息吹を吹き込む、ということだ。人の目には見えないが、植女が苗を植えている時、古い神がそこに来ているというのだろう。
ところで、住吉の植女の起源は、神功皇后が長門の国より植女を召して御田を定められたことにはじまる、と社伝にある。長門から来た植女は、堺の乳守の里に定住した。
そののち、乳守の遊女らが植女として奉仕するようになる、とつづく。つまり乳守の遊女の祖先は植え女であった、という起源譚である。これは神事に奉仕する巫女が、しばしば芸能を行う遊行婦女であったという、かつての習俗をよくあらあわして、興味深い。
長門より召されし植女の裔というかつ子が夏の空の井を汲む のりこ