検証と志向 喜多弘樹
いつの間に梅雨が明けたのか。今年は戻り梅雨とか。ついに梅雨明けを告げる雷鳴の轟き驟雨にもまみえることがなく、暑い夏がやって来た。八月の七日が立秋、旧暦では六月十七日。地球温暖化のせいか、季節の感覚がズレていくような気がする。かりに日本が亜熱帯ともなると、俳句の「季語」はどうなっていくのだろうか。たしかな四季と、そのかすかな移ろいの時間に対する美意識が短詩型文学の根底にある。
吹く風のすずしくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋はきにけり
「蝉の鳴くをききて」詠まれた源実朝の秀歌が口をついて出る。もちろん、この歌には『古今集』の紀貫之の「河原のすずしくもあるかうちよする浪とともにや秋は立つらむ」という本歌を踏まえてのものだが、「おのづから山の蝉鳴きて」と詠んだところに、本歌を越えたすがすがしい、そして透明な孤独感をも秘めた実朝のこころが見えてくるようだ。
夕立の去ったあとのひぐらし蝉の大合唱を聴きたくなった。もちろん都市ではかなわぬことだが、晩夏の吉野山では何度も聴きた。ひぐらし蝉の声がそのまま一首の歌であるかのように思いながら、夕暮れの龍門嶽のおおらかな山容を飽くことなく眺めていた頃がなつかしくよみがえってくる。
『勝負師の妻』という本を読んだ。これは、亡くなられた最後の無頼派の天才棋士・藤沢秀行の奥さんである藤沢モト夫人の著作である。縁あって贈っていただいた。アル中、女性、出奔、ギャンブル、大借金、三度のガン・・・・・・よくもまあと絶句。しかし、棋聖戦四連破という偉業のすごさ、囲碁を芸術の域にまで高めた。優秀な弟子も数多く育てた。壮絶にしてメチャックチャな人生は痛快ですらある。ここまでくれば誰も文句は言えないだろう。
「酒の飲みっぷりや大借金を負ったことから、豪放磊落の印象がつきまとう。否定はしない。しかし本当は繊細な神経を持ち、優しい心配りのひとだった・・・・・・ファンから棋譜が送られると、時間をかけて調べ、(競輪競馬予想用の)赤と青のエンピツで講評を書き入れる。そこまでしなくてもというと、『三歳の童子といえども導師たり。アマチュアの碁だって勉強になるのだ』。こんなことは枚挙にいとまがない」(春秋子)という朝日新聞の観戦記者・秋山賢司の追悼文もこころにしみた。
いまの世の中、無頼であることが許されないということなのか、あるいはみんな賢くなりすぎたのか、いずれにせよさびしいことである。棋士のみならず、芸術家も文学者もすべて、社会の型とか枠組みにはめられてしまって、逃げようとすれば変人のおちこぼれというレッテルを貼られる。
短歌の世界も似たようなものである。無頼派歌人はいなくなった。というか、どこかにいても日の目を見ることがない。徒党を組むのが短歌結社のありていの姿であり、また若い歌人たちもネットを媒介として繋がり合っている。そうした集団からはみだしてしまうことがどんなに困難なことか、利害得失にこだわる人間にはそう思えるのではないだろうか。
最近では二人の歌人に注目している。一人は亡くなられた森岡貞香、そしてもう一人は若手で気鋭の駒田晶子。二人の間になんの接点もなく、歌柄も作品の水準も、歌う世界も異なっている。しかし、森岡貞香には残された歌の再評価を、駒田晶子にはこれからの短歌の在り方を模索するという点において興味がある。
生ける蛾をこめて捨てたる紙つぶて花の形に朝ひらきをり
月のひかりの無臭なるにぞわがこころ牙のかちあふごとくさみしき
月のひかりにのどを濕してをりしかば人間とはほそながき管のごとかり
かぎりなくみみずもつれて地中より出てをりそこにきのふは佇ちし
日日のくりかへしのなか心臓のつと止まるとき鳥なども墜つ
よく知られた歌であるが、どこか妖くいのちがうごめているようで、ふくらみのある世界が醸し出されている。それは、独特の比喩や心象風景をもって歌われ、生きることのかなしみの本質へと迫る名状しがたい迫力を感じさせる。印象のあざやかさも、この歌人の特色のひとつかも知れない。「きらきらと降るこの雨は電話口に出てゐたる間にふりはじめたる」「ガラスへだてて青葉擦れこし青葉さへのめり入るまでガラス透きたれ」などといった作品も、この作者の来歴を何ひとつ知らなくても新鮮で鋭敏な感性のたまものとして受容できるだろう。
冷や奴の白き四つ角曲がりきて堂々めぐりに日の暮れてゆく
香水も口紅もつけぬ母の上を秋のひかりはゆっくりまたぐ
母の中に泉が湧いているようだ咳ひとしきりして眠りたり
おおかたの水こぼれたりわれの手のスプーンより母の口まで銀河
ままごとに見えざる人も招かれて見えざるひとつの椀を渡しぬ
すべてがいい作品とは思わない。「戦争を見ている家族 われら四人いつか見らるる家族になるか」といった社会への風刺や諧謔を匂わせる歌は時代のメッセージにしかすぎない。しかし、ナイーブでみずみずしい感性の飛躍がある。
さて、無頼派のいなくなってしまった短歌の世界はどうなっていくだろうか。