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『いちどだけ生まれた 十六歳の少年通信兵』 岩尾淳子 青磁社2015.6.12

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この著は、戦争の悲惨を伝えるものであると同時にひとつの家族の物語でもある。作中の語り手「私」は著者岩尾淳子氏の父・安保壽一氏であり、冒頭の扉の部分に安保氏は、

「今から七十年前、私は十六歳でした。その年、私は陸軍特別幹部候補生に志願しました。最近、少年時代に何があったのかのこしておきたいという思いを強く抱くようになりました。年ごとに記憶は覚束なくなっています。おぼろな記憶を辿りながら語る私の言葉を娘の淳子が小説風にまとめてくれました。」

としている。彼の言葉のとおり、本著は安保壽一の「語り」であり、娘淳子氏の小説であるともいえる。

冒頭、兵庫県朝来市の美しい農村の風景、大らかな母や家族のことが描かれるが、この農村も太平洋戦争の影響の例にもれず軍国主義一色であり、真面目で向学心あふれる少年・安保壽一は、やがて志願して出征してゆく。ところでこの著には、ひとつ重要な資料があったことがあかされている。それは、『ある通信兵のおはなし』というブログで、平成十四年から十七年にかけて配信された記事百二十話を越す著者は、安保壽一氏の上官であったらしい。これによって当時の通信兵をとりまく状況がより鮮明になったのであるが、本著では、通信兵の生活はさほど描かれていない。むしろ中心は、姉・かず恵の手紙である。

本著四十二頁と八十六頁に、姉・かず恵の手紙の写真が掲載されているが、彼女は終戦後まもなく謎の死をとげた。彼女は戦争中、看護婦として気丈につとめていたが、ある日パーマネントをかけて村にもどってくる。それを見た父が激しく叱り、その夜、彼女は睡眠薬自殺をとげるのである。かず恵は父に叱られたことが原因で自死したのではない、と家族は推測し、その突然の死に激しく心をいためた。壽一にいたっては、予定していた京都への進学を残念してしまったほどであった。

後日、かず恵の友人が、かず恵の手紙をもってたずねてくる。その手紙には出征する弟を思いやる姉の心情や、父母の近くに帰れることを喜ぶ心情とともに、友との別れのさびしさがあらわされていた。かず恵の少女らしい優しさ、健気に生きる姿が垣間見える。その死についての詳しい事情は謎のままであるが、恋愛に心を痛めていたのかもしれない、と、されている。この、かず恵もまた戦争の犠牲者である。戦争という時代にさえ生まれなければ、もっと別の幸せな生涯を送ったにちがいないのである。

やがて、壽一は姉の死をのりこえて県の土地改良事務所に就職する。荒廃した農村の生活の建て直しをする仕事に彼は夢を抱き、ようやく一歩をふみだす。これは日本の新しい時代の幕開けを担ったひとりの人生の記録でもあるといえるだろう。

 

七〇年前、この国は戦い敗れ焦土と化した。人々は焼け野原のなかからたちあがり、働き、ついには現在の繁栄を築くまでになった。だが、今、過去の記憶は日に日に薄れつつある。七〇年めの節目を迎えてこの著が世に送り出されたことは重要な意味をもつ。我々は、同じ誤ちをくりかえさないよう、当時の人がどのように過ごしていたかを知り、ふかく胸に刻む必要がある。著者のあとがきに、

「父からの聞き取りにより、平和を望みながら戦争に巻き込まれてゆく人間の実相に改めて向き合う契機になりました」

とあるのも実感のこもった言葉である。(田中教子)

 

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