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やまとうたの本質 ―折口信夫と万葉集ー        田中教子

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はじめに

 折口信夫は釈迢空という名で短歌実作を行い、大きな足跡を残した。彼の著書である『口訳万葉集』には、ところどころに「傑作」「佳作」という評価が付けられているが、これは、秀歌とはどのようなものであるかということを示し、当時の秀歌感覚を万葉集の中に求めていたのである。

同時代の斎藤茂吉の『万葉秀歌』は、茂吉が秀歌だと思うものを万葉集の中から短歌に限定して選出したものである。今回、両者を比較しながら、折口信夫の秀歌に対する考えがどのようなものであったかということを見てゆきたい。

 

 茂吉の『万葉秀歌』に選出され、且つ、折口の『口訳万葉集』に「傑作」とされている歌に、万葉集巻一・六四の歌がある。巻一・六四は、

葦べゆく鴨の羽交に霜ふりて寒き夕は、大和し思ほゆ〔巻一・六四〕 志貴皇子

※(以下、本稿の万葉集の歌はすべて『口訳万葉集』の表記に従うこととする)

という歌である。この歌は、折口信夫の『口訳万葉集』に、「今夜は寒い夜だ。葦の茂つてゐる海岸を泳いでゐる、鴨の羽の合せ目に、霜が降るといふ樣な冷い晩だ。今夜は、大和のことが思ひ出されてならぬ。(傑作)」と口訳されている。また、斎藤茂吉の『万葉秀歌』では、「難波の地に旅して、そこの葦原に飛びわたる鴨の羽に、霜降るほどの寒い夜には、大和の家郷がおもい出されてならない。」とあって、ここでは鴨は空を飛んでいることになっている。この歌は諸注に、

 

万葉集燈 葦の生たる方にそひて鴨のうかびゆくを

万葉集桧嬬手 あしべを飛ぶ鴨

万葉集全釈 葦ノ生エテヰルアタリヲ、飛ンデヰル鴨

評釈万葉集 葦の生えたあたりを飛びゆく鴨

万葉集私注 葦の生えて居る汀のあたりを瀞泳してゆく鴨

万葉集全注 枯葦のほとりを漂い行く鴨

新日本古典文学大系 葦辺を泳ぐ鴨

 

など、鴨が水辺で泳いでいるのか、空を飛んでいるのかで解釈が分かれている。澤瀉久孝の『万葉集注釈』に、

 

鳥が「ゆく」とあれば空を飛ぶことをあらわすが、鴨の場合は水上を泳いでいると見るべきである

 

とされたことで、現在は、この『万葉集注釈』の意見が通説となっている。つまり折口の取ったほうの解釈が、今は正しいとされている。

茂吉と折口は同じ歌を名歌としながら、頭の中に浮かべている景は随分と異なっているが、ここは、いずれととっても名歌なのであろう。

しかし名歌は、誰にとっても名歌かというと必ずしもそうでもない。一般的に名歌とされるものを折口が「傑作」としているとはかぎらない。なかには、茂吉をはじめ多くの歌人が名歌にあげているにもかかわらず、折口だけが褒めなかった場合もある。たとえば巻一・四がそれである。

 

たまきはる宇智の大野に、馬竝めて朝蹈ますらむ。その草深野〔巻一・四〕 中皇命

 

この歌は、近代アララギの歌人たちがこぞって名歌と賞賛した歌であった。殊に茂吉は、

 

一首は、豊腴にして荘潔、些の渋滞なくその歌調を完うして、日本古語の優秀な特色が隈なくこの一首に出ているとおもわれるほどである。句割れなどいうものは一つもなく、第三句で「て」を置いたかとおもうと、第四句で、「朝踏ますらむ」と流動的に据えて、小休止となり、結句で二たび起して重厚荘潔なる名詞止にしている。この名詞の結句にふかい感情がこもり余響が長いのである。作歌当時は言語が極めて容易に自然にこだわりなく運ばれたとおもうが、後代の私等には驚くべき力量として迫って来るし、「その」などという続けざまでも言語の妙いうべからざるものがある。長歌といいこの反歌といい、万葉集中最高峰の一つとして敬うべく尊むべきものだとおもうのである。(『万葉秀歌』斎藤茂吉)

 

といっている。ところが折口は、

 

一絲紊れない修辭は、感佩すべきことである。併し、既に漢文脈を引いた様な、變化に乏しい、といふ

難は免れない。                    (『口訳万葉集』)

 

としており、この歌に漢文脈から引いた様なところがあると見る。事実、第三句の原文「馬數而(ウマナメテ)」の「馬數」という語は、史記や後漢書その他に用いる。また、「大野」で狩りをするは、史記のなかに「魯哀公十四年春,狩大野。」、春秋左氏伝に「十四年春,西狩于大野」などが見えることなどを考えると、折口の言は、あながち外れてもいないのかもしれない。

また、折口は、この歌の作者・中皇命の「すめらみこと」について「神聖なるみこともちの義」という。「みこともち」は、神と人との間をつなぐ神聖な存在であると解せられ、この考えは万葉集研究に大きな影響を残した。折口は、古代の様相を深くイメージし、そこから歌を理解しようとしたところがある。対して茂吉は、近代人としての感性のまま、その天才性をもって秀歌を選出したと見られる。こうした両者の違いが秀歌を選ぶ基準のなかにもあらわれている。

 

茂吉が『万葉秀歌』に入れなかった歌の中で、折口が「傑作」としているものを見てみたい。巻三・二四五に、

 

聞きし如、まこと尊く靈(あや)しくも、神さび居るか。これの水島 〔巻三・二四五〕

 

という歌がある。これは、題詞によれば、長田王が筑紫に遣わされた折、水島に行き、そのことを作歌したという。初句「聞きし如」は、いささか唐突の感がある。一体、何を聞きし如なのであろうか。通説では、これは、景行紀十八年の条に、熊襲平定後向京の途上、筑紫にて巡狩を行った天皇が小島に立寄り水を所望されたが、水がなかった時、山部阿弭古の祖・小左が天地の神々に祈り、冷たい水が崖のそばから湧いて出た。そこでこの小島を「水島」と名づけた、という地名起源説話があって、これを長田王が当該歌の中で「聞きし如」と受けているのであるという。折口の『万葉集辞典』を見ると、「水島」は、

 

みづ‐しま【水島】 肥後國天草郡の所屬。今、所在知れぬ。葦北都田浦・佐敷(野坂(ノ)浦)から渡
るべき島であるから、樋島・御所浦島・獅子島(以下薩摩)・長島の中の何れかであらう。殊に長島は、
薩摩(ノ)追門(せと)(又、隼人(ノ)迫門)の口にあつて、名高かつたと思はれるから、或は此島かも知れ
ぬ。                               (『万葉集辞典』)

 

とある。ここに考察されている土地は景行紀を下敷きにしていると見られるため、折口も通説どおりの解釈をしていたと考えてよいであろう。折口はこの歌に対して「ほんに聞いた通り、こゝの水島は、尊く神聖に、神々しう古びてゐる事だ。」と口訳し、さらに(深い讃美を、僅かな語で充實させてゐる。傑作。)と付け加えている。土屋文明はこの歌に対して、「全体が言わば記述的であるが、それはかうした作歌動機からの当然の結果であらう。しかも直截な調子の中に一種の感動が盛られて居る点は注意してよい作である。」(『万葉集私注』)と注目している。折口もまた、この歌の調子にひかれ、そこに古代からつづく歌の本質を見て「傑作」としたに違いない。

それにしても、近代アララギの歌人たちは、いずれも古代の歌の「調子」を重用ししているが、そのなかにあって折口信夫は、誰よりも日本的な「調子」を求めていたと言えるのではないだろうか。

 

万葉集巻三・四四八〜四五〇の三首を見ると、折口のそうした傾向が、よりはっきり見えて来る。

 

石の上に根はふ※[木+聖]の木、見し人を何處なりと問はゞ、語り告げむか 〔巻三・四四八〕

 

妹と來し敏馬崎を、歸るさに一人して見れば、涙ぐましも         〔巻三・四四九〕

 

行くさには、二人吾が見し此崎を、一人過ぐれば、見もさかず來ぬ     〔巻三・四五〇〕

 

この大伴旅人の三首について折口は、「漢詩文の影響が見える。第三首は、傑作である。木と人間との世界の交渉を感じることの出來たのは、旅人の歌の大きなものだ、といふことを暗示してゐる。」(『口訳万葉集』)としている。これら三首のうち二首目の歌にたいしてだけ何もいっていない。ところが茂吉の『万葉秀歌』では、二首めが採歌され、三首目巻三・四五〇も「哀れ深い歌である」と一言付け加えられている。

ムロノキについては、『万葉集辞典』に次のようにある。

 

むろ【榁】 杜松ともかく。※[木+聖]を宛てるは誤りである。圓柏(イブキ)に似て、高さ三四丈。葉は頗細くて、柔かな刺がある。年を經たものは、碧い實がつく。麥門冬の實に似てゐる。又、葉が柔らかに垂れて實を結ばないものもある。材は槙に似て、水濕に堪へる。本集では、室木・室乃樹・天木香樹・牟漏能木など宛ててゐる。(『万葉集辞典』)

 

このなかで、先に『口訳万葉集』で※[木+聖]としていたことを訂正しているような一文が見える。もともと※[木+聖]としていたのは契沖の影響と見られるが、後に誤りであったと見て訂正したのであろう。一首目、巻三・四四八について漢詩文からの影響としているのは、ムロノキ「天木香木」(巻三・四四六)が大寶積經や正法念處經のなかに見えることとの関連があろうか。また、このムロノキには神仙世界の聖樹との連想も指摘されている。そうしたことなどを考えれば、たしかに漢籍からの影響がないとは言えない。一方、「傑作」とされている三首目巻三・四五〇の結句「見もさかず來ぬ」は「ひとりで見るつらさのために見やることもしないで来た」(新編全集)と解せられ、ここに二首目の結句「涙ぐましも」よりも深い感動があると見たものであろうか。いずれにしても、折口は、中国文学の影響の少ない歌を「傑作」としている。また、ほかにも、

 

我はもや安見児得たり。皆人の得がてにすとふ安見兒得たり 〔巻一・九五〕藤原鎌足

 

という歌に対して、(素朴な放膽な歌で、殊に唐化主義の張本とも見える人から、儒教などの束縛を受けてゐない、本然の聲を聞くのはおもしろい。)とし、

 

冬籠り春さり來れば、鳴かざりし鳥も來嶋きぬ。咲かざりし花も咲けれど、山を茂み入りても採らず。
草深みとりても見ず。秋山の木の葉を見ては、もみづをばとりてぞしぬぶ。青きをばおきてぞ歎く。
そこし恨し。秋山われは                    〔巻一・十六〕額田王

 

という額田王の名高い歌に、(大して勝れたものでもないが、支那風の空虚な觀念的の遊戯が、唐化主義の時代をよく現してゐる。)としている。このようなところを見ても折口は、外来文化の影響の強い歌を好まなかったと見られる。

 

また、一方で、折口は、平安時代の歌につながる要素を含んだ歌を尊んだ傾向も見える。

 

冬ごもり春の大野を燒く人は、燒き飽かねかも、我が心燒く〔巻七・一三三六〕

 

という歌に「譬喩といふ境を出て、殆象徴の域に這入つてゐる。傑作。」と絶賛している。茂吉によれば、この歌は明治になってから古今の傑作のように評価せられたという。茂吉の言う「古今」とは、古今東西の「古今」のことであろう。茂吉はこの歌を一応は佳作としながらも「調子が好過ぎて軽く響く」といい、文明は「いかにも低俗なものである」と言っている。このような見解の相違がどうしておこったかについて考えると、おそらくは、この歌が、平安朝の人々の尊んだ優美さを呈しているからではないかと考えられる。具体的に言うと、古今集の伊勢の歌、

 

冬かれの野へと我身を思ひせはもえても春をまたましものを  古今集 伊勢

 

などにつながる歌風と言える。そのような点から見ると、万葉集の歌としては発達した部類であるとも言えるが、近代アララギは古今調を廃し万葉風をもって短歌改革をすすめてきたため文明に好まれなかったものと見える。

さらに、折口は、

 

うち霧らし雪は降りつゝ、しかすがに、吾家の園に、鶯鳴くも 〔巻八・一四四一〕大伴家持

 

という大伴家持歌について、平安朝の人々の尊んだ優美といふことが、この邊に兆してゐる。對照も強ひてこさへた痕がなく、曲折があり、複雜がある。傑作。

 

としている。この言葉から、折口が万葉集のなかにあって平安朝の優美につながる歌を評価していたことがはっきり分かる。ただし、彼の世界の中心は常に古代にあり、古今以降の歌よりも万葉集を尊んでいたことは間違いない。折口は、古代日本の本質にこだわりをもちつづけていたと同時に、外来文化の影響のない、平安朝へつながる優美な歌をもまた、たしかな美であると感じていたのである。

だが茂吉はこの歌を秀歌に選ばず、文明は「どこか題詠的で浅い」と言っている。これらの見解は、平安朝の歌の優美につながることが原因であろう。近代アララギは古今調を廃して新時代の歌を改革したという意識から、どうしてもこの歌を秀歌としては受け取り難いこだわりがあったと見える。それは些か窮屈な考えであったかもしれない。

折口信夫は、はじめアララギの歌人であったが、後にアララギを脱して北原白秋とともに「日光」を創刊した。鑑みるに、折口の古代に対する考えと近代アララギの万葉の主義は、最初はわずかなずれであるように見えたものが、しだいに大きな方向性の違いとなり、終には袂を分つことになったのではないだろうか。また、時代とともにリアリズムの方向へ進んでいったアララギの短歌と、折口の短歌は方向性が違ったということも言えるだろう。

 

おわりに

最後に、古代日本の本質にこだわり続けた折口信夫の短歌観を、釈迢空(折口信夫)の作のうえに確認したいと思う。歌人・釈迢空の到達点は、その死後に出版された『倭をぐな』ではないかと見える。なかでも、

 

あなかしこ やまとをぐなや―。国遠く行きてかへらず なりましにけり 『倭をぐな』

 

は傑作である。この歌の「なりましにけり」という結句は、人間の力ではどうすることもできない運命のまえに、茫漠たる悲しみを抱きうち沈んでいる心があらわされている。これは、国を守る為に戦いに行って帰らなかった、折口春洋をはじめ、すべての戦死者とその帰りを待つ者たちへの鎮魂とうけとめられる。同時に、この歌の背後には、倭建命の存在が感じられるが、倭建命の有名な「倭は國のまほろばたたなづく青垣山隱れる倭しうるはし」もまた、すべての行きて帰らなかった者と待つ魂への鎮めの歌でもある。

『倭をぐな』に代表される釈超空の歌には、深淵な古代の歌の本質が内在していると見られる。そもそも歌とは、霊との交渉ではなかったのか。また、彼・折口信夫(釈超空)は、常に見えざるもの見、次元の狭間を行き来していたように感じる。そして、次元の狭間を行き来していた彼ならば、今も、その魂が

どこかで生き続けているような、そういう不思議な胸騒ぎがしてならない。

2024年4月
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